貴州省の旅 |
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中国で貴州省と言えば、昔から『天に3日の晴れなく、地に3里の平地なく、民に3分の銀もなし』といわれ、現在でも中国の中で一番開発の遅れている省。その辺境に住む少数民族・苗族の芦笙祭を見に出かけました。これはそんな辺境旅行記です。 1)テンケン(=滇黔)鉄道(2月24日) 成田から広州経由で昆明着。翌2月24日、12時20分発のテンケン鉄道K160号に乗るため、10時20分に昆明駅に到着、特別待合室にて待機。先月に落成したという新昆明駅は、1階が到着ロビー、2階が出発ロビーという、空港並みのシステム。ごった返している一般待合室には、キャンセル待ちの客も多いらしい。飛行機並みにチェック・インが1時間前というのも理解できる。 テンケン鉄道といえば、雲南(滇の国)と貴州(黔の国)をつなぐ単線で、山の中の隘路をループ状に登ったりする列車。まあ観光列車だろうと思っていたのだが、これはとんだ思い違い。単線でループ状に山中の隘路を走っているのは事実だが、観光列車ならぬ中国鉄道の大動脈。八縦八横といわれる重点的鉄路網の一つで、上海と昆明を結ぶ濾昆横断道の一部である。われわれの乗るK160号は、昆明を昼に出発して、貴陽を経由して、翌朝に重慶に着く夜行列車。18両連結だが、ほぼ満席。中国の航空網は最近急速に整備されつつあるものの、庶民の足はまだ鉄道が基本らしい。面白いことに、すれ違うのは貨物車が多い。考えてみれば、この線は、重慶に籠もった中国軍に、南方から物資を運んだ補給路線でもあった。 昆明付近の、のどかな田園風景は、次第に段々畑の多い風景に変わり、カルスト台地の山々が姿を現す。われわれの見慣れた日本の山々は、富士山のように裾野があって、高くなればなるほど傾斜が急になる。いわば、平野の上に、噴火や隆起によって作られた山々である。これに対して、カルスト台地の山々は、おわんに土をいれて伏せたような形で、中腹の辺りが、切り立っていて、裾野は殆どない。太古の平坦な土地に、無数のひび割れでき、そのひび割れに沿って水が流れ、土が流出して、谷が出来る。太古の平坦な土地で残っているのが、現在の山の頂上なので、山の高さはどれも同じくらい。谷の深さは千変万化である。宇宙から貴州の山々を見たら、高原に無数の谷が、網目のように走っているように見えるに違いない。日本の山々のような稜線がないので、隣の山に行くためには、必ず一度、谷に下りなければならない。山の中腹には、白骨のような石灰岩が無数に突き刺さっているように見える。流失しなかった石である。宜威を過ぎるあたりから、列車はそんなカルスト台地の山中に迷い込む。独立したお椀を伏せたような山々が、重なり合って見えるさまは、日本では見られない、不思議な風景である。しかし、トンネルが多いので、シャッターチャンスは殆どない。 夕方、今日の宿泊地、貴州省の六盤水到着。我々の乗ったのは、硬臥車(一般寝台車)で降り口は一つ。我々が荷物を下ろそうとすると、われを争って乗り込もうとする土地の人々と、もつれ合う。乗務員が出てきて、我々はやっと下りることが出来た。 2)六盤水市政府観光局(2月25日) このあたりはまだ観光客が少ない。そこで市の観光局では観光開発のパンフレットを製作するために、我々にモデルになって欲しいとのこと。我々のバスは、観光局の公用車3台に先導されての観光となった。「写真1」 六盤水から、バスで1時間ほどの山中にある、小花苗族の村の入口では、民族服で着飾った女性達が、我々の到着を、今や遅しと待っていた。政府のお役人が同行してくるというので、村人達はやや緊張気味。かなり強い焼酎を入れた、牛の角で出来た杯を捧げ持った、着飾った女性達が、それぞれ4人づつ道の両側に並ぶ。我々が道の中央に足を進めると、両側から牛角の杯を差し出す。それを一口飲むのが、歓迎の儀式なのだとか。飲まない人は、村に入れないのだという。「写真2」 漢族との闘争に敗れて、深い山中に逃げ込んだ苗(ミャオ)族にとって、自分達の存在が、漢族に知れ、再び攻撃されるかもしれないという心配は、常にあったに違いない。そんな村を訪れる旅人は、本当の友達か、漢族のスパイ。旅人を村のはずれに出迎えての歓迎式は、ミャオ族の警戒システムの名残であろうか。スパイ臭いと思われた旅人は、歓迎式で酔い潰されて、村の中心部には入れない。本当の友達だけを村に案内する。毒ではないかと警戒して、酒に口をつけない旅人も、スパイの可能性がある。 歓迎の儀式が終わると、女性達が、非常に良く響く独特の発声法で、歌を歌いながら、村に向かって行進を始めた。我々観光客はそのあとについて行く。歌詞は、『本日は遠路はるばる、ようこそお出でくださった。それだというのに、食べ物は何もない。だが、幸いなことに、酒だけはたっぷりある。どうぞ呑んでいただきたい』というようなものだとか。でも僕にとって、女性達の歌声は、村の人々への警戒警報解除の合図に思えて仕方がない。「写真3」。 村の広場に到着すると、芦笙を持った若者達が、待ち構えていたかのように、芦笙を吹きながら踊り始めた。女性達の歌声が歓迎の歌と違う調子に変わっていたら、若者達は剣を持って待ち構えていたかもしれない。でも今日は政府のお役人の視察の日、お婆さん達や、乳幼児達も民族衣装に着飾って、われわれを迎えてくれた。 芦笙というのは6本の長さの違う細竹を、芯を繰り抜いた細い杉の先に直角に取り付けたもので、竹を取り付けた直角のところを持って、杉の口を吹くと、6音で出来た和音が出る。細竹の根元に、穴が開いていて、それを塞ぐことによって、和音の音色を変えることが出来る。実際に聞いてみると、和音は2種類か3種類で、僕には、「バオバオ」とそれより少し高い「ガオガオ」の2種類くらいにしか聞こえない。音楽はメロディーというよりも、拍子取りと言った方が良いかもしれない。「バオ、バオ、休み、バオ、バオ、バ」とか「バオ、バオ、バオ。ガオ、ガオ、ガア」といった単調な繰り返しが続く。それにあわせて女性達が輪になって、アヒルの行進さながらに、手を羽にして、お尻を振りながら前進後退を繰り返す。退屈といえば退屈な踊りだが、彼らは結構楽しそうに踊っている。どうやら男と女が出会うための踊りらしい。 当初の旅行計画になかった、大花苗族の村に、観光局が案内するという。ここはお役人の国、我々のスケジュールなどまったく無視。彼らが観光の候補地として、見てみたいのが本音らしい。ガイドはホテル到着が遅くなるので、困惑気味であったが、我々は、観光が一つ増えるので、拍手で歓迎。でも、これがとんでもない山奥、4輪駆動車でも難しいガタガタ道を、スプリングの利いたシティバスで、30分以上ゆられて、胃の中がひっくり返らんばかり。でも村で初めての観光客の到来とあって、村人たちの力の入れようはまた格別。それぞれの家の前では、民族服でおしゃれをして、麻を紡いだり、機を織ったり、家の中も開放しての大歓迎。村の入口での歓迎式は、村の女性総出でお迎え。牛角の杯を捧げ持った娘達を先頭に、その後ろには、道の左側に幼児、右側にオバサンたちがきちんと整列して、我々を迎える。幼児の後ろには、おばあさん達が控える。ここでも、歓迎式には男の影はない。この村はキリスト教徒だとか。村の教会で賛美歌を聴かされた。「写真4」。 後で気づいたのだが、小花苗族の村と大花苗族の村は、直線距離にすればほんの僅かな距離。でも、カルスト台地の山々の構造が、我々に遠回りを強いる。一つの山の中腹を巻いて、山の裏に出て、谷に降りて進み、さらに谷を上って山に登り、再び山の中腹を巻いてその山の裏に出る。こんなことを繰り返していると、深い山に迷い込んだような錯覚に陥る。貴州の山々は、3次元の迷路である。そんな迷路の中に、苗族の桃源郷が、静かなたたずまいを見せる。陶淵明の詩を思い浮かべた。 午前中の訪問予定であった、茨中の歪梳苗族と白苗族の村に到着したのは、一時過ぎ。政府観光局からの通達があったとはいえ、村人は待ちくたびれていたに違いない。歓迎式の後で訪れた村の広場は、お祭りムード。娘達の衣装も色とりどりで、今日訪れた村の中で一番華やかである。「写真5」。 二時近くなって昼食。鶏鍋との事であったが、食べてみると、鶏がらスープの野菜鍋。政府観光局の役人もおいしそうに食べているところを見ると、ご馳走なのだろう。このあたりは山また山の土地。段々畑でわずかに作られた野菜も貴重品。痩せたホウレン草が、根をつけたまま出てきたり、どくだみの白い根が、きんぴら風に調理されている。ビタミン源として、根も貴重なのだろう。多少熱があるせいか、食欲がない。 昼食後、政府観光局の人たちと別れて、六枝に向かう。途中、バスを降りて、道から岩場を登ること約10分、四印苗族の村を訪問。ろうけつ染めと刺繍が得意な人々らしい。村の広場では中学生くらいの女の子たちが、踊りと棒術を披露してくれた。「写真6」。 3)交通事故渋滞/長角苗族(2月26日) 六枝のホテルを8時30分に出発したものの、20分も走った頃だろうか、バスは大渋滞に遭遇した。現地ガイドの確認によると、なんと大型トラック同士の正面衝突。まだレッカー車も来ていないので、当分開通の見込みはないらしい。30分も待っただろうか、ガイドが衝突現場の向こうで、「六枝行きの路線バス」を臨時チャーターした。我々を、長角苗族の村まで運んでくれるという。六枝に行くために乗っていた乗客たちは、衝突現場で全員が降ろされ、路線バスはUターンをして、我々の貸切になった。ガイドによると、この路線バスは公営ではなく、運転手の私企業だという。だから、金次第で、このような無理が利くらしい。 長角苗族の女性達は、後頭部に半月状の板を、牛の角のように結わえて、それを骨組みとして、自分の髪に黒い毛糸を付け足して、巨大な髪型を作る。昔は毛糸ではなく、代々の女の祖先の髪が使われたという。ナポレオン帽を大きく膨らませたような髪の重さは、4‐5キログラムだという。地毛にとっては、かなりの負担らしく、荷重がかかる前頭部や頭頂部が、禿げている年配者も見られる。「写真7」 歓迎式に出てきてくれた女性達は、何となく幼い。一番の年長さんは、若い中学校の先生で、後はその生徒達だという。村の入口で、歓迎式を受けて、坂道を下ってゆくと、観光用に作られたと思われる、村の広場に到着。先生の司会で始まったショーは、さながら民族衣装を着た学芸会。男の子達も華やかな前掛けをして、笙や草笛を吹く。「写真8」。最後は先生をモデルに結髪の実演。今日は土曜日なので、学校はお休みなのだろう。でも、他の日に観光客が訪れたときには、このショーは、特別課外授業なのだろうか。初めて、「しつっこい物売り」に出会ったことからもして、この村にはかなりの観光客が訪れているのだろう。 村の中を散歩して、時間を稼ぐが、まだ道路は閉鎖されたままで、開通の見込みはない。来る時にチャーターした路線バスは、帰ってしまったので、我々は数台の幌つき三輪車に分乗して、山道を、麓の市場まで下りる。ここで昼食。それでも、まだバスが来ないので、また路線バスをチャーターする。文句を言いながらでも、何とか降りてくれた土地の人々に、「悪いなあ」とは思うが、ここは中国辺境地帯。外からの人々の身勝手には、なれているらしい。 2時過ぎに、我々のバスと合流。黄果樹大瀑布に向かう。が、またしても交通事故渋滞に遭遇。昨夜、畑に転落した大型トラックを、レッカー車に積み込み中との事。ほぼ1時間ほどで、動けたものの、滝に着いたのは、5時半過ぎ。急いで観光を終えた時には、もう夕闇が迫っていた。滝そのものは、わざわざ見に行くほどではない。 今日のように、2度も交通事故渋滞に遭遇するのは珍しいが、それを乗り切った現地ガイドの手回しの良さには感心する。8時近くになって、安順のホテル着。 4)屯堡人の村(2月27日) 明の時代、苗族を中心とする少数民族の反乱を鎮圧するために、この貴州の地に屯田兵が送り込まれた。屯堡人とはその子孫達。老漢族とも呼ばれるが、漢族であって少数民族ではない。 南中国の少数民族は、大きく3種類に分かれる。第一は、日本語と同じ、主語+目的語+述語という文型を持つ、ビルマ・チベット語族で、チベット族をはじめとして、雲南や四川に住む、イ族、ハニ族、白族、ナシ族、リス族などである。彼らは、民族の独立を保ちつつ、朝貢を活用して、漢族と比較的良好な関係を保ってきた。第二は、タイ語系の種族で、雲南のタイ族と、広西自治区を中心に住む、チワン族やトン族がこれに属する。タイやビルマの国境に近く、漢族の影響が及ばなかったタイ族を除けば、チワン族やトン族は、漢族の官吏に直接支配されたグループである。そして第三が、今回の旅行の貴州省を中心に住むミャオ・ヤオ系の種族で、漢族に時折叛旗を翻し、敗れては、どんどん山奥に逃げ込んだ人々である。面白いことに、彼らの言葉は、中国語と同じ、主語+述語+目的語という文型を持つ。どうやら彼らの祖先は、揚子江南岸の豊かな土地、現在の湖南省あたりに住んでいたらしい。しかし、度重なる戦闘の末、逃げ込んだのが、山また山で大軍隊が動かせない貴州。秦や漢の頃には、既に貴州に逃げ込んだ人々が、ゲリラ戦を展開していたらしい。苗族の別称「夜郎」は、夜に活躍する人々の意味だろうか。秦代の地図に、すでにこの名がある。このゲリラ戦は、明や清の時代になっても、続いていたのだから驚く。明の時代になって、ようやく、ゲリラの根拠地である貴州に、漢族の屯田兵を送れるようになるまで、苗族は押さえ込まれた。現在の苗族には、紅、青、白、黒、花、の5苗があり、さらにそれが分かれて、大花、小花といったように小集団に分かれる。山また山に阻まれた人々が、それぞれの文化を発展させたと考えるのも楽しいが、これがゲリラ組織の名残だと考えるのも楽しい。 屯堡人の村は、貴州では少ない平地にある。平地に陣取って、周りの山々に住む苗族を監視するのは、容易な仕事ではなかったであろう。この地に送られた屯田兵やその家族達の苦労が察せられる。鮑屯村と九渓村を散策。平凡な田舎の村で、特に目立つもののない。村の中心に井戸があり、天秤棒で桶を担いだ人々が、水を汲みに来る。井戸の傍では、洗濯をする人が数人。その傍らの台の上には、野菜が並べられていた。洗濯や水汲みに来たついでに、買物もしてゆくのだろう。 天竜鎮は、駐屯軍の本部のあった所らしく、現在では村全体が保存公園。観光客は、入場料を払って、ガイド付で村を回る。小さな流れに沿った石畳の瀟洒な道には、店が並ぶ。昔の酒保らしき場所で、地劇を見る。単純な仮面劇だが、屯田兵達にとっては、故郷を偲ぶ貴重な娯楽であったのであろう。「写真9」。 気温は7‐8度くらいなのだが寒い。日本だったら、シャツの上にセーターくらいで十分なのだが、その上に厚手のジャンパーを着ていてもまだ寒い。風邪を引いているので、僕だけが寒いのかと思ったが、ほかの日本人達も、震え上がっている。そういえば、昆明を出発以来、貴州では太陽を見ていない。厚い雲にいつも覆われている貴州では、太陽に暖められた地面からの輻射熱がない。気温は同じでも、雨の日は、寒く感ずるのと同じである。何処か湿っていて、薄暗く、幽霊でも出そうな天気である。出てくる料理には、きのこが多い。菜の花は、軸から花まで、全部出てくるが、緑が薄く、とても柔らかい。日光をさえぎって栽培すると、このように柔らかな野菜が出来るのであろう。 青岩鎮の明代古街を散策した後、凱里に向かう。 5)苗嶺山寨/舟渓鎮芦笙祭(2月28日) 凱里からバスで、山に分け入ること約1時間半。大塘の苗嶺山寨に到着。銀苗族の出迎えを受ける。我々が案内されたのは、山寨の麓の広場。三階建ての家々で囲まれた広場の中央には、真直ぐな石段が後ろの山に登っている。その入口には門があり、「苗嶺山寨」という額が飾ってある。どうやら我々は、村の入口から、歓待攻めで追返されるらしい。山寨のほうには何があるのだろうか。 広場の中央で、年老いた男性が銅鑼を打ち始めると、着飾った女性達が、三々五々に集まり始めた。銀苗と言われるだけに、銀の冠や、銀の首飾り、銀の前掛けなど、きらびやかな衣装である。他の苗族より豊かな部族に違いない。苗族の女性の衣装は、その家の全財産だといわれる。敵に襲われたら、いつでも家を捨てて逃げる準備なのだろう。因みに昔の中国は銀本位制なので、銀製品を持っていれば困ることはない。「写真10」 単純な芦笙のリズムに合わせての踊りは、一列で輪になって踊る盆踊りスタイル。アヒルの舞に始まって、お酒を勧める舞、椅子の舞い、豊作の舞など、名前は変わっても似たような踊りが続く。盛装した子供達の踊りの次は、華やかな娘達の踊りの輪。そして最後は、髪を結い上げて、後ろに大きな白木の櫛を挿し、前掛けの縁取りの色以外は、全部黒装束のオッカア達。この踊りの輪は、ギンギラギンの子供や娘たちとはまったく対照的で、葬列のように異様な感じがする。「写真11」 このように、村中の女性達が着飾って踊ってくれる歓迎式に、旅行社から村に支払われる謝礼は、一回1万円程度。だから、村人一人当たりの配当金は、わずかなものである。それでも現金収入のない村人達にとってはありがたいのだという。 我々が踊りを見ている最中に、高級カメラを持った十人くらいの老人達が、どやどやと入ってきて、カメラを構えている我々の視界を無神経によぎる。写真家に引率されての、大阪の写真グループとか。高級カメラを構えれば、「他人の視界などお構い無し」という姿勢が気に食わない。写真を撮り終わったこの老人達、村人に一元の謝礼も支払わず、逃げるように立ち去った。 午後は、この旅のメイン・エベントである舟渓鎮の芦笙祭。これは我々の「ヤラセ」ではなく、苗族の旧正月のお祭り。我々は無料で見せていただく。山また山に阻まれて、隣の部落が何処にあるのかも判らない人々にとって、いろいろな部族の集まるお祭りの日は、絶好の出会いのチャンス。川原で、未婚の女性達が、部落ごとに輪になって、芦笙にあわせて踊る。踊りの輪の周りには、娘の母親や、おばあちゃん達が円陣を組んで、娘達の踊りを守る。「写真12」 十数個の踊りの輪で混みあう場所から、少し離れた川原は、娘達の着替え室。持ってきた衣装に着替えさせ、娘にお化粧をする母親達は真剣そのもの。「写真13」 そんな中に貸衣装屋も店開き。我々の添乗員・山口さんと、西安から来たスルー・ガイドの女性も変身、5時までの約束で、二人で50元とか。彼女達、苗族の衣装がなかなか良く似合う。今日出会った苗族の娘達の中で、二人は飛びぬけての美人である。 6)ホテルでお休み(3月1日) 出発の一週間前に発熱、成田に前泊した時には収まっていたが、昆明に着いた頃から、またおかしくなり始めた。テンケン鉄道では、寝台車でゆっくりして、元気を蓄えたのだが、25日辺りから咳や痰が出始めて、食欲もなくなった。カビでも生えそうな貴州の天気と、ホテルの暖房の、乾湿の差が、風邪をこじらせたらしい。それに、昨日の芦笙祭では、張切って歩き回ったせいで、疲れてしまった。今日は移動日ではないので、今日の観光はスキップして、ホテルで1日休む事にした。いつもの僕なら、これで完全回復するのだが、今回は不調。この風邪は旅行が終わって、日本に帰ってからも続いた。咳や痰が治まって、食欲が回復したのは3月10日過ぎ。59キロの体重は55キロまで減っていた。3月25日現在、57キロまで回復したものの、最初に太ったのはおなか。元の体型に戻すには、地道な運動しかなさそうである。 今回の旅で、体調の悪い時の辺境の旅が、どんなに苦しいものであるかを思い知らされた。でも、まだ懲りずに、明後日にはバングラデシュに旅立つ。 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」 芭蕉。 7)短裙苗族(3月2日) 標高6百メートルの凱里から、標高2180メートルの雷公山を超えて、楽里まで5時間半。曲がりくねった山道の、よく揺れるバスでの旅は、体調の良い人でも、いいかげん参っている。2時近くになっての昼食も、皆食欲がない。レストランの前では、猪と犬の毛をバーナーで焼いていた。皮ごと調理するための下準備である。 これから先は、バスが入れそうもないので、また路線バスを横取りチャーター。空申村に向かう。村の手前3キロほど手前で、痺れを切らして迎えに来た短裙苗族に出会う。山からここへ下りてきてからも、稲を刈り取った田んぼの中で、焚き火をしながら、我々の到着を2時間以上も待ってくれたという。短裙とは、ミニスカートのこと。見ているだけでも寒そうである。ご苦労様。午後一番の約束なのに、我々の到着は四時近く。山道での遅れとはいえ申し訳ない。 腕に青の縁取りをした黒い上着に、黒のミニスカート。黒の頭巾は僧侶の被り物に何処か似ている。全体の印象は「忍者・くのいち」か、「女ねずみ」、今までに見てきた華やかな苗族とはだいぶ違う。3メートルほどもある竹をつけた芦笙を、旗指物のように振り回して、踊る黒装束の若者。その後ろに並んで、踊りながら行進する「くのいち」軍団。山あいの段々畑に囲まれた、ほんの小さな田んぼと焚き火。どんよりと曇った空。今回の旅で出会った、一番詩情豊かな風景である。女性が輪になって立ち、その中に数人の男性がしゃがんで入り、求婚の歌を交わすのも、面白い。女性上位の村なのだろうか。「写真14/15」 8)白鳥衣苗族(3月3日) 黄色の菜の花畑が、ときどき車窓をよぎる。その割には、相変わらず寒い。昨日は、菜の花狩りをするトン族の農業学校の生徒達に、今日は畑に出かける水族の女性に、菜の花畑の前で出会って、写真ストップ。「写真16」 興華郷の広場で、10時に待ち合わせたのだが、まだ誰も来ていない。白鳥衣苗族の村は、ここから1時間くらい登った山の上。連絡をするにも、電話はない。我々は川原でのんびり待つことにした。野菜を洗う女性、釣りをする男性、小船の修理をする人々。こんなのんびりとした時間も、忙しいツアーの息抜きとして、たまにはあってもいい。彼女らがやってきたのは、11時半頃。それからおもむろに、川原での着替え。白鳥の羽をスカートの裾につけた衣装は、なかなか華やかである。「写真17」。踊りが始まったのは、ほぼ12時。でも、誰も文句を言わない。山の村の時間感覚に慣れたらしい。芦笙踊りは、ここではお腹の毛繕いをしながらの行進である。 三宝のトン族の鼓楼を見て村を散策後、従江のホテルに向かう。 9)トン族(3月4日) 従江を過ぎて、広西チワン族自治区に入ると、なんとなく暖かくなってきた。車窓にはポンカン畑が多くなる。先にも述べたように、チワン族もトン族もタイ語系の人々。中国の管理に服しながら、農業で生きてきた人々である。僕の印象では、漢化の度合いの大きいのが平野に住むチワン族。山村に住んで、固有の文化の残っているのがトン族である。 肇興のトン族の村では、村の中心にある十二層の鼓楼で歓迎式。といっても、これは苗族の歓迎式の真似。観光用のショーといったところ。男女に分かれての合唱。田植えの歌、びわの演奏、機織や餅つきの風景、求婚の様子の寸劇。観客も加わっての踊りの輪などなど。面白いのは、彼等の民族衣装で、ナイロンの軽い合成皮革のような、水をはじく柔らかな布に、いろいろな刺繍が施してある。細かく織った麻や棉の布を、藍染にしてから、豚の血で表面処理したものだという。小雨の多いこの地では、この素材は軽くて、農作業に出るにも便利ならしい。 民家を抜けて、裏山に上ると、この村の全貌が一望出来る。この村は五部落の集合体。そして、それぞれの部落にも、五・六層の小さな鼓楼がある。太鼓を合図に集まる部落の集会所だとか。田植えの日を決めたり、村の工事の相談でもするのだろうか。 鼓楼や、屋根つきの橋・風雨橋は、トン族建築の粋。釘を一切使わず、木の組み合わせだけで作るのだという。民家も瓦葺の二階屋、なかなか大きく立派である。三江泊 10)程陽・風雨橋(3月5日) 程陽風雨橋は、長さ77メートル、幅4メートルの橋。トン族のもう一つの代表建築である。雨の多い土地とはいえ、橋全体に屋根を架けるという発想が面白い。1920年代に、8か村が協力して作ったものだが、今では、橋の両側におみやげ物売りが屯している。 珍しく早い時間に、龍勝のホテル着。 11)金坑・紅ヤオ族の棚田(3月6日) ヤオ族は、苗族と近い種族。やはり山の中に住む。棚田は日本にもあるし、わざわざ中国まで見に行く事はなかろうと思っていたが、良く管理された棚田と、山の斜面に点在する集落の景色は、やはり素晴らしい。それが深い山の中に、ぽっかりと現れた時には、よくもこんな場所に棚田を作ったものだと感心する。ペルーのマチュピチは廃墟だが、ここはまさに、中国の「生きているマチュピチ」。世界遺産に申請中だというが、こんな棚田をどのようにして保存するのだろうか。ヤオ族の移住を禁止して、若者の都会への流れを止めるのだろうか。他人事ながら、ちょっと心配になる。「写真18」 桂林泊。翌日、広州経由で成田着。 |
旅行写真 |
山の中 No.1 |
小花ミャオ族の歓迎式... No.2 |
村への行進 No.3 |
大花ミャオ族の歓迎式... No.4 |
茨中村のミャオ族 No.5 |
四印ミャオ族の踊り No.6 |
長角ミャオ族の女性 No.7 |
長角ミャオ族の学芸会... No.8 |
仮面劇の中へ No.9 |
銀ミャオ族の踊り No.10 |
銀ミャオ族の母親達 No.11 |
舟渓鎮の芦笙祭 No.12 |
晴着を着る No.13 |
短裙ミャオ族の踊り No.14 |
短君ミャオ族 No.15 |
水族の女性 No.16 |
白鳥衣ミャオ族 No.17 |
紅ヤオ族の棚田 No.18 |