スリランカ紀行 |
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今回の旅では、インド大陸の涙、あるいは緑の真珠といわれる、セイロン島を垣間見ることにした。スリランカと呼ばれるこの国は、お釈迦様が描いた天国。バナナや椰子は、手入れをしなくても、いつも実っている。社会保障も行き届いている。外国からの援助もやってくる。人々は、釈迦の教えを守って、現状に満足しているので、あくせくと働く必要が無い。何事にも、ただ、笑顔を浮かべて待っているだけである。餓鬼道に落ちて、満足を知らず、常に誰かと競争を強いられている日本人とは対極にある。スリランカを旅すると、日本人は心が休まるという。 1月16日。成田を出て、香港で乗り継ぎ、スリランカに着くまで、ほぼ16時間。3回の機内食と、毎回のアルコールのおかげで、多少の睡眠は出来たものの、疲れたことには変わりない。深夜のコロンボ空港を出て、出迎えのバスに乗り込むと、運転手が、一人一人に、プラメリアの花で作ったレイを掛けてくれた。スリランカの第一印象は悪くない。 1月17日。コテージ形式のホテルの部屋で、鳥の声に目を覚ました。機内のうたた寝の癖がまだ抜けていない。バイキングの朝食の後、ホテルの庭を散歩。ジャック・フルーツが実り、ブーゲンビリアが咲き誇る様は、まさに南国。ハイビスカスの原種であるブッソウゲ(仏僧花)は、この辺りの野の花。芙蓉やムクゲ(木槿)に似た花が、そこここに見られる。 食堂のボーイは坊主頭で裸足だが、シャツとロングの巻きスカート。青地に白の絞り模様も鮮やかで、日本なら女性の衣装である。でも、このスカートは、サロンという名で、れっきとした男性の衣装。町で見かける男性の60%以上が、ズボンではなく、カラフルなサロン姿である。最初は奇異に感じたが、日本の袴だって、西洋人から見ればスカート、見慣れると悪く無い。スリランカの主要民族であるシンハラ族の男子の正装は、白シャツに白のサロン、へその上辺りに白の帯を締める。この日訪れた、アヌラダプラの寺院では、そんな男性を数多く見かけた。ホテルのボーイの着こなしは、いささかだらしなく見えたが、正装したシンハラ族の中年男性は、袴姿の侍といった感じで、なかなか優雅である。因みに、このサロンは、2メートルほどの一枚の布を、筒型に縫い合わせただけのもの。筒の中に身体を入れて、腰のところで布を両脇に引っ張り、その先を前に持ってきて結ぶと、着付け完了。前に襞が出来るので、歩きやすい。ロングなのは虫除け対策なのだろうか。 スリランカは、北海道よりやや小さな島国だが、多民族国家である。といっても、町を歩いてみる限り、旅行者の我々には区別がつかない。母語による人口構成では、シンハラ語族74%、タミール語族25%、英語族・マレー語族・その他が1%と、比較的単純だが、これに宗教が絡み、地域が絡んで、非常に複雑な様相を呈しているという。シンハラ語族の大半は仏教、タミール語族はヒンズー教か回教、ポルトガル・オランダ・イギリスと三代の植民地支配で生まれた英語族はキリスト教。海洋民族のマレー人は回教である。スリランカの国内戦争は、豊かな南部湿潤地帯の先住民・シンハラ人(仏教徒)に対する、貧しい北部乾燥地帯の住民・タミール人(ヒンズー教徒・回教徒連合)の抗争である。この抗争に対して、仲介役を買って出たのが日本。「仲良くしたら、双方に経済援助をします」という仲裁案で、休戦が成立。日本人に対するスリランカ人の感情は良好である。 シンハラ族の建国伝説によると、北インドの王子・ヴィジャヤが700人の部下とともに、スリランカに漂着、先住民と混血して、王朝を築いたのが紀元前483年だという。建国伝説に混血が絡むあたりは、いかにもスリランカらしい。シンハラ語がインド・アーリアン系なのは、ヴィジャヤ達の影響らしい。しかし、先住民がどのような人種であったかは明白ではない。地理的には、対岸の南インドに住む、ドラヴィダ系のタミール人が思い浮かぶ。しかし、海洋民族であるマレー人が混じっていたとしても不思議では無い。ちなみに、ドラヴィダ族は、インドの人口の25%を占める大民族だが、その人種的系統は不明である。インド・アーリアンに比べて小柄で、色も黒いという。形態的には地中海人種に近く、語順は日本語と同じ、ウラル・アルタイ系だとか。 最初の観光地アヌラダプラ(Anuradhapura)は、シンハラ王朝の建国から12世紀までの約1600年間、スリランカの都が置かれた地である。インドのアショカ王の息子マヒンダによって、シンハラ王朝に仏教が伝えられたのは、紀元前247年。それ以来、信仰深い王達に保護されて、数々の仏塔がこの地に建立されてきた。 イスルムニア寺院の入口で、初めて靴を脱いだ。仏前では誰もが平等と言う意味を込めて、スリランカでは、たとえ王であっても、寺院の入口で裸足にならなくてはならない。荒砂を敷詰めた庭に、一歩踏み出すと、足の裏が刺激されて少し痛い。子供の頃の運動会では、裸足で走っても何とも無かったのに、如何に自分の体が、文明に毒されて、過保護になっているかを知る。紀元前3世紀に、この寺院の岩に彫られたという、愛し合う男女の像が、切り取られて、テント張りの宝物館に展示されていた。 菩提樹の寺(Sli Maha Bodhi)に行く。釈迦が悟りを開いたのは、ブッダガヤの菩提樹の下。紀元前3世紀、その菩提樹の一枝を、この地に持ってきて植えたのが、この寺の始まりという。日本の伊勢神宮のように、スリランカ人が一生に一度は、参詣する場所だとか。田園地帯の中に作られた、かなり長い石畳の参道は、非常に良く整備され、街路樹の上では、尾長猿の親子が二組、人間達のざわめきをよそに、静かに眠っていた。スリランカの仏教徒達は、満月の日には、一日酒を絶って、お寺参りをするのだという。今日はその満月の日とあって、着飾った参詣の人々で賑わう。本堂の床には、白の正装の人々が、隙間の無いほど座り込み、本堂から溢れた人々は、小雨の中で、傘を片手に、境内のそこここに屯している。一日、このようにして、釈迦と同じ瞑想を体験するのだという。年寄りだけでなく、若い人も多い。 菩提樹の寺から、スリランカ最大の佛塔まで、現地の人々と同じように、裸足で歩くことにした。すれ違う盛装の美少女達が、運動靴をぶら下げて歩いている白髪の日本人に、好意的な頬笑みを投げかけてくれる。もちろん彼女達も裸足。頬笑みは、外国人の仲間に対する挨拶であろう。すがすがしい気分になる。この夜、足の裏がほてって、体全体に血の循環の良くなったことを実感する。 1月18日。ハバナラのホテルからシギリア・ロック(Sigiliya)まで、ジャングルの中の道を抜けてゆく。シギリア・ロックは、ジャングルの中に垂直にそそり立つ、180メートルほどの岩山。その岩山の頂上の平坦部には、王宮の跡が残っている。西暦459年、アヌラダプラ王朝のカサッパ王子が、父王を殺して王位を奪ったが、兄弟達の復讐を恐れて、この地に王宮を築いたのだという。岩山の周囲には、幅15メートルほどの堀が張り巡らされ、正面の橋から岩山の登り口までの約200メートルの間には、兵士達を展開する広場が整備されていた。岩山の頂上へは、1200段という狭い階段だけ。二人並んで戦えるスペースは無い。まさに難攻不落の城である。しかしそれは「落人の城」であって、為政者である王の城ではない。人民から離れて、ジャングルの中に引き籠もったのでは、もはや王ではない。やがて、弟に敗れて、この王宮はジャングルの中に埋没した。イギリス人によって、再発見されたのは1875年。王宮跡から眺めたジャングルの風景は、マヤ遺跡のピラミッドから眺めた風景と、同じように見えた。この岩山の中腹の岩壁にあるのが、シギリア・レディと呼ばれる天女達を描いたフレスコ画。時代的には法隆寺の壁画よりも、200年ほど古いにも拘らず、色彩が非常に美しい。カサッパ王は、王として失格であったが、スリランカを代表する壁画を残すことになった。 ハバナラのホテルに戻って昼食の後、午後の観光は、ポロンナルワ(Polonnaruwa)。南インドから侵入してきたタミール人の王朝が、シンハラ千年の都・アヌラダプラを破壊して、新しく都に定めたのがこの地である。その後、シンハラ王朝は復活するが、都はアヌラダプラに戻ることは無かった。12世紀後半には、シンハラ王朝の最盛期を迎え、ポロンナルワは、南アジアを代表する仏教都市として栄えた。現在のこの地の遺跡のほとんどは、その当時の物だという。しかし、往時は7階建ての建物であったという王宮や、その周りにあったという、きらびやかな寺院建築は無く、残っているのは、雨ざらしの石仏と、崩れ落ちそうな煉瓦の壁や、基礎の石柱ばかり。王宮の沐浴場では、土地の人々が、洗濯に勤しんでいた。12世紀といえば、日本の鎌倉時代。木造の立派な寺院建築が、各所に残っている日本と比較すると、スリランカの遺跡の無残さには目を覆う。 ポロンナルワ郊外にあるガル・ヴィハラ寺院もその例外ではない。建物は無く、煉瓦の土台だけが残っている。しかし、青空の下で見る釈迦の涅槃像は、今回の旅のクライマックスであった。岩山を削りだして作られた、長さ14メートルの涅槃像、そしてその枕元に立つ、悲しげな表情の仏弟子阿難。芸術的な価値もさることながら、雨にさらされて浮かび出た石の脈理が、仏像に不思議な魅力を加えていた。 涅槃像を見下ろす岩の上に、揃いの白服を着た裸足の少女が7人。カメラを向けると、にっこりと頬笑んでくれた。実に可愛くて、天女の様に美しい。この白い服は、少女のサリーと呼ばれるもので、宗教行事などで着る正装の由。僧侶に付き添われて、グループで行動していることから察すると、お寺の行事なのだろうか。話かけたら、驚いた雀達のように、一斉に笑いながら逃げて行ってしまった。因みに、この国のサリーには、シャツと長い布だけのインド式と、それに加えて、腰にフリルのついた紐を締めるスリランカ式がある。少女のサリーは、スリランカ式のサリーに加えて、さらに、首の周りにお地蔵さんの涎掛けのような、フリルが付く。しかし、大人のサリーに見られるような肩掛けは無い。 夕食の後、ホテルのショーを覗く。日本の温泉宿のショー以下である。ダンスタイムになると、地元の若者達も加わって踊り始めた。ポルトガル人によって伝えられたバイラというリズムだとか。終戦直後に、GIたちが踊っていた浜ジル(=横浜ジルバ)にどこか似ているが、マンボでも踊れる。 1月19日。ダンブッラ(Dambulla)の石窟寺院を訪ねる。高さ180メートルという岩山の中腹に、5個の洞窟が掘られ、それぞれの洞窟の中には、合計150体ほどの仏像が安置されている。大きな涅槃像など、岩から直接彫り出された摩崖佛には、歴史が感じられるが、小さな仏像や壁画は、そんなに古くは無いらしい。この洞窟寺院は、紀元前1世紀に開かれたが、内部の度重なる改修で、オリジナルは失われ、現存する仏像や壁画のかなりの部分は、12世紀から18世紀の作品だという。改修の頻度が高いのは、それだけこの寺院が国民に信仰されている証拠。日本人観光客にとって、金ぴかすぎる仏像は、いささかガッカリだが、それは趣味の問題である。ここは神聖な祈りの場所。信仰の対象である仏像に尻を向けて、写真を撮ろうとする不埒な観光客には、監視員の目が光る。仏像と一緒の写真を撮るには、仏像に斜めに向かって手を合わせ、顔だけをカメラに向ければ良い。中庭の小さな池に浮かぶ紫睡蓮が、活け花のように咲き初めていた。スリランカの国花だという。白い服の中の褐色の少女達の笑顔が紫睡蓮に重なる。 ダンブッラからキャンディへの途中、道路沿いに軒を並べる、観光スパイス・ガーデンの一つに立ち寄った。ここで、サービスに出された生のココアは、フルーツの香りがして、なかなか美味しい。乾燥したココアだけしか知らない小生にとっては、初体験である。例によって、女性軍は、お肌に良いという、いろいろな精油や香油を大量に購入。どう見ても、手遅れだと思われるご婦人達の、自己満足らしい。でも、そのおかげで生のココアを味わえたのだから、こんなトイレ休憩も悪くは無い。 キャンディのホテル・シタデルに早めにチェックイン。昼食は、マハウェリ川を見下ろす、ホテルの食堂。対岸のジャングルの緑を愛でつつ飲むビールが旨い。観光は夕方4時半からとあって、このすばらしいホテルで、のんびりとした時間を楽しむ。ちょっと残念だったのは、水着を持ってこなかったこと。きれいなプールがあった。 スリランカ第二の都市・キャンディ(Kandy)は、シンハラ王朝の最後の都である。13世紀になると、ポロンナルワのシンハラ王朝は、分裂と抗争、南インドからの進入などによって弱体化し、千年以上の歴史を誇った、灌漑王国はいつの間にか放棄され、人々は南の湿潤地帯へと移住していった。シンハラ王朝は、幾つもの国に分裂したが、その一つがキャンディ王国である。アヌラダプラやポロンナルワは北部のやや乾燥した地帯、キャンディは中央の湿潤地帯だが、高度があるせいで、北部よりも涼しい。15世紀になると、ポルトガルが沿岸地帯を占領して、植民地化が始まるが、キャンディ王国は1815年にイギリスに敗れるまで、地方政権として、その独立を保った。現在のキャンディは、コロンボの奥座敷的な場所であり、イギリス風の瀟洒な建物が、緑の中に点在している。 夕方の観光は、仏歯寺とキャンディアン・ダンス・ショウ。お釈迦様の歯、すなわち佛歯は、日本の三種の神器と同じように、シンハラ王朝の正統を示すものらしい。四世紀にインドから伝来して以来、常に、王宮の隣の寺院に安置されて、王の任命する僧侶達によって、厳重に管理されてきたという。シンハラ王朝の都がアヌラダプラからボロンナルワに移り、さらに、都が転々として、キャンディ王国になるまで、佛歯も転々とその場所を変えた。1637年にポルトガル軍がキャンディに進入、全市を焼き払ってしまったが、その後、数十年を経て、ポルトガル軍を駆逐したシンハラ王朝によって再建されたのが、現在の佛歯寺である。建築様式には、西洋のにおいが漂う。コロニアル・スタイルのキャンディの町並みとは調和しているが、スリランカの代表的寺院を見たという気にはならない。本堂の裏手に、旧王宮の一部を改造した博物館がある由だが、我々のツアーコースには入っていなかった。ちょっと残念な気がする。 キャンディアン・ダンスは、この佛歯寺の象祭りの踊り。従って、鼓笛隊も踊り手は全員が男性。イスラムの礼拝の呼びかけ「アザ−ン」の様な、朗々とした法螺貝の音に続いて、ドラム隊が、首から提げたドラムを左右から激しく打つ。このドラム、「山寺の和尚さん」という唱歌の「ダラジク、ダラジク、エーイホホ」というリズムと、そっくりに聞こえる。祭りの時には、佛歯を乗せた象を先頭にして、この音楽で町を行進するらしい。踊り手達の衣装は、きらびやかな羽のついた冠と、大きな耳飾。裸の上半身には、花飾りを紐で綴った前当て。下半身は、フリルのいっぱい付いたサロン。尻を膨らませて、尻尾のように紐をたらしている。スリランカの国鳥である、鶏の姿を模しているのだろうか。彼らの踊りぶりは、まさに「おかま」の少年隊。宙返りや、バック転の合間に、おかまチックに、手や首を動かす。「寺小姓」の伝統があるのかもしれない。しかし、彼等は仏教の修行者として、火渡りや火喰らいといった荒行の披露もしてくれた。 1月20日。ペラデニア植物園に行く。シンハラ王朝の王宮と庭のあった場所を、イギリスが占領して、植物園に変えた所である。植物園の三方が、スリランカ最大の川、マハエリ・ガンガに囲まれた要害の地で、シンハラ軍がポルトガル軍を撃退した場所でもある。南国の植物の生い茂るすばらしい植物園だが、その歴史を考えると、物悲しい。マハエリ河に沿った枯れた大木が数本、数万羽と思われる蝙蝠のねぐらになっていた。シンハリのつわものどもの夢の跡である。 ホテルに戻って昼食の後、紅茶の里・ヌワラエリア(Nuwaraelia)に向かう。キャンディから68キロ。茶畑の中のいろは坂を、バスが登ってゆくと涼しさが増す。町の標高は、1870メートル。熱帯でも、日中の最高気温は20度前後の常春の地である。長袖シャツの腕まくりを下ろす。谷あいを登ってゆくバスからの眺めは最高。向こう側に美しい滝が見えた。 茶摘の風景を写真に撮ったら、茶摘女がチップをねだりに集まってきた。それを見た男の監督が、彼女達を叱り付けて、仕事に戻させた。ガイドのマーチンさんの説明によると、彼女達がチップを貰うことに慣れると、仕事をしなくなるからだという。彼女達の賃金は、朝6時頃から夕方5時頃まで働いて、一日300円程度。写真のモデルで、100円のチップを貰ったら、働きたくなくなるのは当然であろう。彼女達はシンハラ人ではない。南インドのタミール人の低いカーストの出身者だという。イギリス人達が、スリランカで紅茶工場の経営を始めた時、安い労働力として、この地に連れて来られた人々の子孫である。同じタミール人でも、征服者として北スリランカに入植している、高いカーストのタミール人とは、あまり関係が無いらしい。 紅茶工場を見学して、紅茶を買う。1ドルで、オレンジ・ペコなら100グラム、ブロークン・オレンジペコなら200グラム。ダストと称するティーバッグ用の粉の紅茶なら300グラムを買える。日本で買う値段の10分の一の値段である。その差は、ブレンドと包装にあるらしい。 夕食の時に、スリランカの地酒・アラックを試す。椰子の樹液を発酵させ、それを蒸留したもので、ウイスキーと同じような色だが、アルコール度は、ウイスキーよりやや低い。甘い香りのする、薄めのブランデーといった味で飲みやすい。空港のデューティ・フリーショップで、750CC瓶を2本買う。1本5ドルであった。 1月21日。ヌワラエリアのマーケットで初めて物乞いに出会った。スリランカは、スエーデン・タイプの社会主義の国。学校は無料だし、社会保障制度も日本以上に整っているので、本来なら物乞いの必要は無いのだという。しかし、観光客に対する物乞いは、良い商売らしい。 ピナウエラで象の孤児院を訪ねた後、コロンボに向かう。ヌワラエリアの涼しさの後だけに、暑さが身にこたえる。コロンボ市内は、見るものが無い。街中にあるガンガラマーヤ寺院の仏像の後ろには、キリスト教の教会で見られるような天使の図が描かれていた。 ホテルで少し休んだ後、深夜のコロンボ空港より、帰りの飛行機に乗る。 |
旅行写真 |
門前町 No.1 |
月と仏僧花 No.2 |