モンゴル紀行 |
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2007年7月7日から14日まで、モンゴル人民共和国を訪れた。モンゴルといえば、ジンギスカンと朝青竜のイメージ位しかなかった僕にとって、この旅は、新知識の洪水であった。 1)キリル文字 成田で、モンゴル航空に乗って、まず驚いたのが、機内で配られる新聞。みなロシア文字(キリル文字)で書いてある。いつの間に、モンゴルはロシア語になったのだろう。でも、良く見ると、それはロシア語ではなく、モンゴル語らしい。現地に到着して、早速、ガイドに確かめると、1941年に、キリル文字に切り替えられて、既に60年以上。北モンゴル人は、たいていキリル文字を読めるという。しかし、1990年に始まった民主化以後、再びモンゴル文字の教育も行われるようになったという。27歳になるというガイド嬢は、その両方の文字が読めた。 因みに、モンゴル文字とは、漢字と同じように、上から下へ書き、左から右に書いてゆく。漢字から作られた日本のかな文字のような物と、理解していたが、帰国して百科事典で確かめると、ジンギスカンの頃、ウィグル文字を参考にして、作られたものとか。モンゴル文字は、アラビア文字と同系統ということになる。僕の誤解が、また、一つ訂正された。 成田からウランバートルまでは直行便で約6時間。ソウルや北京で乗り継ぐのが、一般的らしいが、直行便はやはり便利である。モンゴル航空のサービスは悪くない。 2)ノモンハン事件 観光第一日目は、ウランバートル市内見物。 1990年の民主革命以後に、再建されたという、ガンダン・テグチレン.寺院を訪ねたあと、まずは、民族歴史博物館をゆっくりと回る。我々日本人は、中国の歴史は知っていても、蒙古の歴史は殆ど知らない。匈奴(Hunnu)、鮮卑(Xianbi)、柔然(Jujan)、突厥(Tureg)、ウイグル(Uighur)、吐蕃(Tibet)、契丹/遼、蒙古、元、韃靼、清、モンゴル。このうちどの時代を知っているのだろうか。 昼食の後、ウランバートルの市郊外にある小高い丘に登る。此処からウランバートル市内を一望できるとあって、観光名所になっているらしい。しかし、その頂上に建っている円形ドームは、モンゴルとソ連の連合軍の戦勝記念碑。日本人としては、あまり良い気がしない。 モンゴル人にとって、ロシアは、ジンギスカン系のキプチャク汗国から独立した国。ブリヤートなど、ロシアに残っている蒙古人も多い。一方、満州出身の王朝、金、遼、清などは、ジンギスカン以来の宿敵である。特に清には、支配されたこともあって、憎しみが強い。その清朝の末裔を皇帝にした満州国は、モンゴルにとって天敵である。 ソ連とモンゴルは、満州の情勢をにらんで、1936年に相互軍事援助協定を締結した。1939年のノモンハン事件は、そんな背景の下に起こった。モンゴル人と、満州に入植した朝鮮人の水争い。それに介入したのが日本の関東軍。これは国際情勢を知らぬ、現地の軍人の独断だったらしい。結果は、ソ連軍の介入で、関東軍の惨憺たる敗戦。ノモンハン事件は、大東亜戦争の直前だったこともあって、この敗戦は、日本ではあまり語られていない。ソ連と日本の小競り合いくらいにしか、日本では思われていない。しかし、モンゴル人にとっては満州勢力に対する大勝利である。 過去に、日本とはいろいろ摩擦もありましたが、今日、こうして皆様と仲良く出来ることを嬉しく思います。とは、モンゴルでよく聞かれる言葉。日本人は、その摩擦を元寇だと勘違いしているが、過去の摩擦とはノモンハン事件である。モンゴルは、ソ連とともに、日本に宣戦布告をしていた。 現在のモンゴルは、日本人に好意的である。しかし、中国人や朝鮮人に対しては、警戒心が強い。清朝時代に、漢人に商業網を独占され、困窮した人民が、革命によって現在の国を作ったという歴史がある。ガイド嬢によると、先日、日本人が襲われたのは、中国人と間違えられたためだという。中国人や朝鮮人は威張っているが、日本人は、良くお辞儀をして、礼儀正しい。モンゴル人が、日本人を見分ける方法だという。 3)女体佛 戦勝記念碑から、宮殿博物館に向かう。モンゴル最後の皇帝・ボグド・ハーンの冬の宮殿跡。宮殿といっても、祭政一致の政府なので、建物は寺院風。今は荒れ果ててみる影もない。ボグド・ハンはチベットから来た生き仏。ジンギスカンの末裔と結婚したが、女王は敢えて子供を作らなかったという。 この博物館で、数体のボインちゃんの仏像を見た。博物館では撮影禁止なので、写真はモンゴル航空の機内誌より無断拝借。こんな綺麗な仏様なら、毎日拝みたいと思う。ボインちゃんの仏像は、インドにもあるが、こんな綺麗なのは、初めて見た。この世の中に、男と女がある以上、人間の理想の形を表現する仏像に、男と女の両方の形があるのは当然。むしろ、女性型の仏像のない日本の方が、変かもしれない。でも、モンゴルでは、ごく当たり前らしい。モンゴルで女性型の仏像が作られ始めたのは17世紀。ジンギスカンの血を引くラマ僧、ザンバザル教王の時代。仏の慈悲と優しさを説くためとか。 モンゴルが満州人に支配された(モンゴルでは、清朝と言わないで、満州人とあえて呼ぶ)17世紀後半から、1924年の人民共和国の成立まで、モンゴルの地方政府の元首は、活仏のラマであった。清朝の保護もあって、チベット仏教は、隆盛を極め、一時は、モンゴル男性の3分の1が僧侶になり、モンゴルの人口が減少したとも言われた。 モンゴル人民政府は、宗教を禁じた。多くの寺院が破壊され、スターリン粛清の時には、多くの僧侶や知識人も処刑された。しかし、1990年の民主化革命以後、信教の自由が許されると、すぐにガンダン・テグチレン寺院などが、再興された。60年以上の禁教期間にも拘らず、モンゴル人は信心深い。今でも、慶弔は何事も、僧侶に相談するのだという。300年以上にわたる宗教支配の名残だろうか。 若い男性が、禁欲生活を続けると、どこかで暴発することは、良く知られた事実。そんな暴発を防ぐために、日本軍は従軍慰安婦を準備したし、アメリカの進駐軍は、日本政府に慰安婦設備を要請した。家庭内暴力の原因の多くは、性交を拒否された男性の暴発行為だとも言われている。邪推をすると、こんな女体佛が作られたのは、もしかしたら、若い僧侶達の暴発を防ぐためかもしれない。 4)文殊菩薩廟 モンゴルの面積は日本の約4倍。これに対して、人口はたったの250万。その半分はウランバートルに住んでいるという。しかし馬と牛はそれぞれ200万頭、ヤギと羊は合計で3千万頭くらい。だから、一歩ウランバートルを踏み出せば、草を食む家畜たちの天下である。人は殆ど見かけない。 そんな草原を走ること約2時間。マンズシール(文殊菩薩廟)国立公園は、岩山の麓にあった。しかし何もない。単なる廃墟である。昔は2千人近くの僧侶達が此処で修行をしていたのだという。その証拠を示すように、僧達の粥を煮たという大きな鉄鍋が一つ、遺跡の中央においてあった。そこに捧げられた青い布を、牛がのんびりと食べていた。布は絹、牛にとっては格好の蛋白源なのであろう。 今年は雨が少なく、今頃は花盛りのはずなのに、岩山は緑もまばら。でもこの岩山の北斜面には、珍しく木が茂っていた。南斜面は蒸発が激しいため、木が育たないのだという。木のない草原は、風が激しい。板塀で囲った、古びた本堂の周りにだけ、花が咲き、蝶が舞っていた。 5)騎馬隊ショー 昨年、ジンギスカン建国800年を記念して編成された、モンゴル騎兵隊500人による、ジンギスカン時代の戦闘を再現するショー。好評で、今年も継続が決まったというので、モンゴル・ツアーに申し込んでだ。 観光2日目は、文殊菩薩廟見物のあと、昼食。騎馬隊ショーの会場に向かう。昼食をした、ツーリスト・キャンプから、草原の丘を、突っ切って走る。道はない。会場は、どうやら騎馬隊の演習場の中。仮設会場の入口には、明日の皇太子訪問に備えて、日の丸とモンゴル国旗がはためいていた。我々は貴賓席に陣取った。満席かなと思いきや、案に相違して、ガラガラ。此処からは、遠くの丘に待機する、騎馬隊も見える。軍の散水車が、会場に水を撒き終わると、騎馬隊が、砂煙を上げて、続々と集結。壮大なドラマが始まった。屋内では決して見られないド迫力である。ドラマは、宣戦布告、シャーマンの祈り、出陣、戦闘場面、勝利の祝いと続き、最後は閲兵式。出演した部隊が、それぞれ貴賓席の前で挨拶。 1時間半のショーの間に、100枚ほど写真を撮った。ほぼ、興奮状態である。モンゴルに来た目的は、十分に果たされた。 広大な会場と、500人の騎馬隊兵士と馬、兵士達の装束、それだけでも莫大な費用に違いない。でも、貴賓席の入場料はたったの68ドル。こんなガラガラでは、莫大な赤字である。しかし、騎馬隊の兵士達は、徴兵された若者。騎馬隊ショーは、軍事訓練の一部である。富士山麓の自衛隊の演習に比べれば、この騎馬隊ショーの赤字は、些細なものである。田舎育ちの若者は、子供の頃から馬に親しんでいるので、改めて乗馬訓練の必要もない。モンゴルでなければ出来ないショーである。 6)ゲルと乗馬 観光3日目は、移動日。ウランバートルから350キロほど離れたブルドまで。昼食は、到着してからとる予定であったが、到着はなんと2時過ぎ。この区間は、まともな道路がある予定であったが、その殆どが工事中。こんな時は、道路の脇の草原を自由にサファリである。何かに掴っていないと、バスの天井に頭をぶっつける。トランポリン・ロードと名づけることにした。途中何度かトイレ休憩を取ったが、もちろん男も女も青空トイレ。突風が吹くので、注意しないとズボンを濡らす。でも、ひどく乾燥しているので、すぐに乾く。 ブルドのツーリスト・キャンプは、草もまばらな、砂地の中にあった。旅行者用に作られた、ゲルの集団である。ゲルとは中国語のパオ(包)、遊牧民の移動住宅である。大きなものもあるが、ツーリスト・キャンプのゲルは、ベッドを4台、円周に沿って並べると、もう一杯。中央には、暖房用のストーブがある。幸い、空いているゲルがあったので、現地で、プレミアムを払って、一人使用を確保。 昼食後の乗馬体験は、現地の若者の曳き馬で1時間ほど散歩。この馬、頻繁にくしゃみをする。鼻の中にハエが飛び込んでくるのだという。この一帯は、野鼠の巣穴が多い。馬が、うっかりと、その巣穴に足を取られて躓き、2度ほど、振り落とされそうになった。 夕方、近所のゲルを訪問。歓談のあと、ゲルのご主人の民族服を借りて、記念撮影。いざ着てみると、ダブダブ。ゲルで話している時には、大きく感じなかったが、力士の着物を着た子供のような状態であった。 7)ナーダム 観光4日目は、モンゴルのお祭り、ナーダムの見物。各地で、いろいろな催しが行われるが、弓と、モンゴル相撲、それに競馬が三大行事。ウランバートルのナーダムは、大きすぎて、身近に見られないというので、我々は田舎の村のナーダムに参加。 村長のゲルに招かれて、馬乳酒と羊肉で接待を受ける。馬乳酒は大きなどんぶりで回しのみ。ちょっと口をつけて、前に置くと、次の人のために、追い注ぎをして回す。昨年アルタイ地方で、馬乳酒には苦い経験がるので、今回は、礼儀として、軽く口をつけるだけにした。この地方で、飲めるのは、馬乳酒を蒸留した焼酎。飲んだ感じは20度程度。これならお腹を毀さない。羊肉は、脂身のところが、客人用の上物。でも、我々日本人にとっては、赤身の方がありがたい。 村長に悩みと喜びを聞いてみた。悩みは、最近の温暖化と乾燥で、草の生育が悪いこと。喜びは、のんびりと遊牧生活が楽しめること。農民や、日本人のような生活は、好きではないらしい。 村のグランドで行われた相撲大会は、地方予選。優勝者が、中央大会に出る権利を獲得する。賞品はいたって質素だが、名誉が最大の報酬とか。 競馬は30キロレース。騎手は軽い子供達。上位に入賞した子供は、村のグランドに戻って、日本の追分馬子唄に似た、勝利の唄を歌いながら、飾り立てた馬に乗って、会場を2−3周する。競馬に出た馬達の尻尾は、紐で束ねられていた。こちらでは、馬も牛も尻尾が長い。表彰式では、正装した父親が、手綱を曳く。駿馬を育てた家族の名誉なのだという。 残念ながら、弓の競技は見られなかったが、その代わり、仮面の踊りを見ることが出来た。 砂塵の舞う中でのお祭り見物。でも、それなりに楽しい体験であった。 8)カラコルム 観光5日目はモンゴル帝国の旧都・カラコルムを訪ねる。ブルドのキャンプから、再びトランポリン・ロードを走る。バスからの風景は、相変わらずの草原。旧都といっても何もない。遠くに、城壁らしきものを発見。これが今日の目的のお寺・エルデニ・ゾー。城壁の中には、インド式、中国式、チベット式、それに、モンゴル式の寺院が散在する。 此処の展示物の中に、仏教儀式に使う、18歳の処女の足の骨で作ったという笛があった。どうやら、此処だけではなく、ほかにもあるらしい。何のために作ったのだろうか。足の骨を取られた、少女はどうなったのであろうか。ガイドに聞いたが、説明はなかった。人を救う筈の宗教も、時には狂って、残酷なことをする。 昨年、秋篠宮が立ち寄ったというキャンプで、昼食。バスが出発すると、雷が鳴って、雨が降りはじめた。熱帯のスコールと同じような、篠つく雨。瞬く間に、道路脇が池になり川になる。粒子の細かい粉ミルクの上に、水を掛けると、表面だけが濡れて固まり、下まで水は浸透しない。これと同じことが、此処では起こっていた。この地の砂は粒子が細かい。だから、せっかくの雨も、地面に吸収されず流れてしまう。 粉ミルクのような細かい砂で出来た道に、雨が降り、その上に、車が通ったら、まさに泥捏ね。道は道ではなくなる。所々に水溜りが出来、それを迂回するために、さらに泥捏ねあとの凸凹が広がる。翌日の、ウランバートルへの帰り道は、まさにその泥捏ねあとの、道なき道を350キロ。帰国してからも、体中の筋肉が痛んだ。 9)木を植える フラワー・ウォッチングの予定で、カラコルムからウギー湖畔まで来たものの、今年は、雨が降らなくて、花は無い。草だって、生育が悪く、こんなところに花が咲くのだろうかと思う。 ツーリスト・キャンプの庭には、白樺が植えてあったが、その殆どが枯れている。ウランバートルの寺院でも、苗木が植えてあったが、その半分以上は枯れている。 モンゴルでは、地球温暖化と砂漠化を防ぐために、「木を植えよう」という機運があるらしい。しかし、モンゴルの人は木の植え方を知らない。モンゴルの草原で木を育てるためには、まず、土つくりより始めねばなるまい。水が染み通って、保水力のある土である。今日の雨の後の状況からして、この土地の土には保水力がない。保水力を持たせるには、有機質を混ぜ込むのが一番。木の葉が茂って、根元に落葉が積もれば、自然に、保水力のある土が出来上がる。しかし、それまでは助けてやらなければならない。 写真は、モンゴルで多く見かけた植樹の方法である。穴を掘って、若木を植え、その周りを土手で囲む。遣り水が流れないような工夫である。でも、一度にやった水は水溜りになるばかり、土に浸透しないで、蒸発してしまう。穴の中を見ると、表面はセメントのように固まっている。これでは、せっかくの木の根も呼吸が出来ない。穴の周り、すなわち喫水線のあたりには、草が生えているが、穴の中には、草も生えていない。せっかくやった水は、蒸発によって失われる。苗木のためには、根元を覆ってやることも必要だろう。家畜たちに食べられないようにするために、囲いや蔽いも必要だろう。冬の寒さから守るための工夫も必要だろう。 ゴビの砂漠で木を育てることは簡単なことではない。木を植えることに反対する人たちも多いという。苗木を植えても、それを育てる人が育つかどうか、モンゴルの植樹計画は、モンゴル政府主導らしいが、民衆が、どれだけ理解するかに問題もある。 日本の友人達のボランティア・グループ・モンゴリアン・ブルーも、この運動に協賛している。日本人が、協力できる方法があるとすれば、モンゴリアン・ブルー・コンテストを立ち上げて、苗木を一年間、あるいは二年間、無事育てた人に、賞を贈るというアイディアはどんなものだろう。人と木を一度に育てる手助けになるかもしれない。 10)雑感、ウギー湖畔にて 花がないので、湖畔を散歩することになった。馬達が水辺で草を食んでいる。馬達の群れは、一頭の牡馬に率いられたハーレム。若い牡馬が群れに近づくと、2頭の雄の闘争が始まる。でも、雌馬と子馬は、知らぬ顔をして草を食む。人間の社会と同じらしい。 彼らの食料はハーブ。同じ草を摘んでみると、素晴らしく良い香りがする。付近に落ちていた馬糞は、日本で見る馬糞と違う。飼葉を食べた日本の馬の糞は固まりだが、こちらの馬糞は、さらさらとした香草の繊維。これを燃すと、蝿よけになるという。蚊取り線香のような働きがあるらしい。この香草、日本に持ってきたら、ビジネスになるかもしれない。 木を育てるには、この馬糞で、土を作るのがいいかもしれないと思った。 僕の泊ったゲルでは、風力と太陽光発電。こんな離れた土地では、送電線を作るよりも、ずっと効率的なのであろう。まだ、太陽光発電は、先進国では不経済だが、後進国では、経済性がありそうである。 |
旅行写真 |
キリル文字 No.1 |
ウランバートル市内 No.2 |
女体佛 No.3 |
女体佛 No.4 |
山羊の群 No.5 |
牛と大鍋 No.6 |
騎馬隊 No.7 |
雄たけび No.8 |
凱旋行進 No.9 |
ツーリスト・キャンプ... No.10 |
競馬の表彰式 No.11 |
カラコルム No.12 |
木を植える No.13 |
馬のハーレム No.14 |