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イエメン紀行
旅行先 : イエメン共和国周遊
 時期 : 2008.1-2.
1)イエメン共和国。

南北に分かれての、内戦が終わって、観光客が入れるようになったのが、10年ほど前。
でもまだ、外務省の危険情報によると、渡航延期推奨地帯も残っている。
今年の1月、ベルギー人観光客が銃撃され、観光客2名と、運転手2名が死亡する事件があった。昨年7月にも、スペイン人観光客17人が死傷している。決して安全な国ではない。
それでも行くのが、物好きな日本人。我々のグループは13人。全員70歳前後。4組のご夫婦と、一人参加は男2人女3人。ま、いつ死んでも、悔いはない連中である。

羽田から、関西空港を経由して、ドバイで乗り換え、イエメンの首都・サアナまで約20時間。エミレーツ航空の機体はいいけど、従業員はいまいち。国際的な混成チームで、統制が取れていない。
入国審査では、イスラエルの入国記録があると、入国を拒否される。パキスタンやイランの出入国記録があると、警戒される。イエメンの旅行代理店の保証がない個人旅行者も入れない。安全確保のために、団体客だけを受入れる方針だとか。

お酒の持ち込みは2本までOK。僕はウィスキーを2本持ち込んだ。ホテルの部屋で飲む分には、合法である。しかし町では、アルコールは売っていない。唯一、サアナのシェラトンにはビールがあった。ハイネケンの350ミリ缶が11ドル。イスラムの国を旅行するのもいいが、非イスラム教徒にまで、禁酒を強制するのは頂けない。イランを旅行して、そんな国にはもう行くまいと思った。サウジアラビア、リビア、アルジェリアなど、飲酒の取締りの厳しい国には、絶対に行きたくない。

昔の地図を見ると、イエメンは二つの国に分かれている。イエメン・アラブ共和国(=北イエメン)は、1918年に、オスマントルコのくびきから逃れて、独立した国。今一つ、イエメン民主人民共和国(=南イエメン)は、昔のイギリス領アデンが1967年に独立した国。現在のイエメン共和国は、この二つが、1990年に統一されたものである。現在のイエメンを見るときには、同じ民族の国とはいえ、分割されて支配された歴史が長いだけに、まだ、北と南に分けて眺めるほうが良いのかもしれない。

イエメンを眺める上で、もう一つの要素は、地形と気候による分類である。
第一は、山岳地帯の高原の温暖気候。第二は、紅海やアラビア海沿岸の熱帯性気候。
第三は、ワジ(=枯れ川)に沿って発達した、通商路。そして第四は、人の住めない灼熱の砂漠である。
今回の旅では、北イエメンで第一と第二の地区を周遊、南イエメンでは第三の地区を観光した。これは、そんな旅行記である。

2)高原都市

北イエメンの中央部には、南北に山脈が走る。この一帯は、乾燥気候であるにも拘らず、この山脈のおかげで、山の中腹には、雨が降る。人間、水のない砂漠には住めないが、水さえあれば、険しい山の上でも住むことが出来る。首都のサアナは、標高2300メートルの高原都市。第二の都市タイズも、標高1300メートルの高原都市である。

サアナの旧市街は、世界最古といわれる町。世界遺産である。ノアの洪水のあと、ノアの息子がこの町を築き、紀元前7世紀頃、シバの女王がこの町を治めたという伝説もある。イエメンのどの町よりも、この町は美しい。紀元前に、乳香の貿易で栄えた、シバの女王の栄華を偲ぶことが出来る。
城門の中に立ち並ぶ家々は、すべてが、6−9階建ての伝統住宅。しかし、集団住宅ではなく、一家族の居住用。階ごとに、役割が決まっていて、下から、家畜小屋、台所、寝室、生活空間、と続いて、最上階は、カートで寛ぐ、マフラージと呼ぶサロン。豊かな交易商人たちの集まった町である。
建物の土台部分は、石でできているが、その上は、日干し煉瓦を積み重ねて、漆喰で固めたもの。壁は、暑さを防ぐために、50センチほどの厚さがあり、日本の土蔵のように、窓は小さい。その窓には、それぞれの個性的な装飾が施されている。
我々は、旧市街の中央を走る高速道路の出口から、バーブアルヤ門まで歩く。道は細いので、車は旧市内には入れない。

シバの女王の王朝を継ぐ、古代南アラビア王国の一つ、ヒムヤル王国は、西暦紀元前後に、インドや東南アジアと、ギリシャ・ローマを結ぶ中継貿易で栄えた国。フェニキア文字を使っていたと言う。灌漑も行われて、豊かな国であったらしい。しかし、ササン朝ペルシャの興隆によって、インドとの貿易ルートがペルシャ湾経由に変わり、イエメンの没落が始まった。また、キリスト教やイスラム教の興隆によって、乳香が、宗教儀式に使われなくなったことも、もう一つのイエメン没落の原因らしい。貿易路は、やがて、シルクロードに変わり、イエメンは中東の僻地に没落する。

サアナの西北の山岳地帯にあるコフランは、そんなヒムヤル王国時代の村。段々畑のある山道を登ってゆくと、突然目の前の山頂に、ビルの集落が浮かび上がった。天空の町ラピュタを思い浮かばせる。天空の村と、対を成す、山の中腹の村から、天空の村を眺めると、雲がかかっている。天空の村には、大きな貯水池があった。こんな山の頂に、貯水池を作るなんて、当時の灌漑技術水準は、世界の最先端であったであろう。現在でも、水を汲みに来た女達がいた。

イエメンの高原地帯を旅すると、至る所で、段々畑の風景に出くわす。中国の貴州省でみた、穏やかな棚田風景とは違い、自然の荒々しさを感じさせる段々畑である。中国の棚田には、十分な水と土がある。しかし、イエメンの段々畑は、少ない土を石で囲ったもの。どんな作物が出来るのだろうか。急斜面の段々畑は、マチュピチュにも劣らない。

コフランからアムランに抜ける道は、カラコルム・ハイウエイに勝るとも劣らぬ天空道路。中国の技術援助による建設だと言う。砂漠の道路といい、山岳の道路といい、多分、中国の技術は世界一ではないかと思う。

サアナの北にあるアムラン州は、昨年の7月に、スペインの観光客が、テロに出会ったところ。外務省の分類でも、「十分注意してください」よりも、危険度の高い「渡航の是非を検討してください」になっている。でも、イエメン政府は、観光客誘致にご執心。観光省や、観光警察まで作っての、努力中である。
あらかじめ、届けてあった、旅行計画表にしたがって、今朝は、ハッジャのホテルまで、観光警察のパトカーがお出迎え。ハッジャから、コフラン、アムランという、アムラン州内の山岳地帯の移動中には、パトカーが先導。観光で降りたときには、カラシニコフを担いだ兵隊さんが、いつも歩哨に立ってくれた。

ヒムヤル王国は、在来の多神教に、ユダヤ教、キリスト教などが伝えられ、それが、社会に亀裂をもたらした。最後のヒムヤル王(487-525)は、キリスト教徒を虐殺したために、
キリスト教徒であるエチオピアに国を奪われることになる。その後の、イエメンの支配権は、エチオピアから、ササン朝ペルシャに移り、さらに、イスラム帝国に移る。イスラム帝国の辺境の地となったイエメンでは、イスマイル派、シーア派、ザイド派などの、抗争が絡んで、数々の地方政権王朝が、めまぐるしく交代した。

アムランの町は、イスラム帝国初期に築かれたもの。サアナから、コフラン、さらにアムランと眺めると、時代が新しくなるに従って、建物が貧しくなり、優美さが失われて行ったように思われる。アムランの建物は、何処となくアフリカの匂いがする。サハラ砂漠の中の都市、トンブクツやジェンネの泥の家。そんな遠くからの影響があるとは思えないのだが、あるいは、エチオピアの占領の結果かもしれない。エチオピアに出かけて、確かめたくなってきた。僕の、物好きの虫が動きだした。11月頃の出発を計画しよう。

3)オスマントルコの要塞。

イエメンが再び世界の注目を浴びたのは、16世紀。地中海、スエズ、紅海からインド洋と続く道の、重要拠点としての、イエメンである。ペルシャ湾の入口であるホルムズ海峡を、ポルトガル海軍が制圧した事に対して、オスマントルコは、紅海の制海権を求めて、イエメンに進出した。その後も、オスマントルコによる干渉・支配は、第1次大戦で、オスマントルコが崩壊するまで、いろいろな形で継続した。北イエメンが独立したのは、1911年である。
イエメンを旅行していると、オスマントルコの要塞が、各地で見られる。

ホッジャは山岳地帯への北の入口。下から眺めるホッジャの町は、まさに天空都市。
険しい山の上が平で、そこに町が浮かんでいる。日本では見られない不思議な風景である。しかし、遠くから見ると平らでも、近くに行くと起伏の多い土地。その一番高いところに建っているのが、オスマントルコの要塞。我々のホテル『ガムダン』も、高台の一角にあった。なかなか素晴らしいホテルである。此処から要塞が良く見える。

ハッジャが、高原地帯への北の入口なら、南の入口はタイズ。当然、この町にも、トルコ軍の要塞があった。タイズは、イエメン第二の都市で、人口は30万ほど。12世紀頃に築かれた城塞都市だが、今では、イエメンの商業の中心地。周辺では農耕が営まれ、なんとなく豊かな雰囲気が漂う。

この国の半分以上の男性は、カートを噛む。お茶の葉に似た、一種の興奮剤である。お茶の葉よりは、苦味が少ない。習慣性があるので、この国以外では、麻薬扱いとか。口を膨らませて、カートを噛んでいる姿は、なかなかユーモラスなので、写真を撮ろうとしたら、「見苦しいから嫌」と断られた。
カート代は1日平均3ドル。月にすると100ドル近い。我々のドライバーの一人は、奥さんが2人で子供が8人。だからカートは噛まないという。この国の収入水準からすると、2番目の奥さんを持つ費用と、カートを噛む費用は、似たようなものらしい。
この国の経済の三分の一はカート関連産業だと言う。タイズ郊外では、そんなカートが、沢山栽培されていた。カートは、若芽の部分を切って、束にして売る。
町のあちこちに、間口1メートルほど、カート専門店がある。ちょうど、昔の日本のタバコ屋といった所。買ったカートは、濡れタオルに包んで、鮮度を保つ。午後になると、眠気覚ましだといって、我々のドライバーも、護衛の兵隊さんたちも、半分以上が、口を膨らませていた。

今回の旅では、行く先々でモスクを見せられた。しかし、イスラム文化の知識のない僕には、豚にコーラン、馬の耳に念仏である。京都の破れ寺で、その寺の由緒を聞くのと同じ。
ちっとも、面白くない。だから、この日記では、モスクのことは割愛した。

イエメンの男達は、腹に太いベルトをしめ、お臍の前に、ジャンビアと呼ばれる短剣を挿している。日本のサラリーマンのネクタイと同じらしい。このジャンビア、外見は立派に出来ているが、刃の付いていない模造品。竹光に近い。おみやげ物屋でも、5−10ドルで売っている。ドライバーとのおふざけで気付いたのだが、このジャンビアは逆手に構える。日本人なら、多くは順手に構えるのと、全く逆である。
このジャンビア、ホテルのトイレでは威力を発揮する。普段は、男でも座って小雉を撃つ。砂漠のつむじ風に、会わないようにするには、これがいい。しかし、ホテルの朝顔便所では、立って用をたすしかない。スカートを捲り上げて、その先をジャンビアに挟む。

4)沿岸部の砂漠地帯

タイズから、山道を下ると、次第に貧しくなる。暑さも増す。高原のタイズから、海岸のモカへの道は、現在建設中。砂塵の舞う仮道路から眺める、工事中の本道路は、なかなか、しっかりとした基礎工事。この砂漠の中の道路建設も、やはり中国の技術援助だとか。歴代、中国は土木工事の先進国である。

モカはコーヒーの積出港として栄えた港。イギリスが商館を設けたのは、1618年。しかし、今は寂れて、その面影は全くない。壊れかけた建物が僅かにあるのみである。因みに、現在の「モカ・コーヒー」は、エチオピア産と、イエメン産のコーヒーの総合ブランドだと言う。

モカの近くの世界遺産・ザビートの旧市街も廃墟と言う言葉がふさわしい。13−15世紀には、学問の町として、栄えた由だが、半分、崩れかかったような、日干し煉瓦積からは、そんな栄華は、全く感じられない。世界遺産というには、あまりにも惨めな姿である。シャッターを押す気にもならなかった。
旧市街の隣にある、オスマントルコの要塞に登ると、何処からか、子供や若者が、湧き出てきた。仕事もなく、塾もなく、暇をもてあましているらしい。ただ、ものめずらしそうに、我々を眺めているだけである。要塞から眺めると、町にはゴミだらけ、ポリエチレンの青や赤の袋が、空に舞っていた。
ザビートでの昼食のレストランは、アフリカ風。対岸のソマリアあたりの影響であろうか。

モカから、ホデイラまでの、海岸線の北上は、単調な旅だが、それなりに面白いものも見つけた。ステップに生えている木の形が面白い。皆、上に伸びないで、横に開いている。根元に木陰を作るためであろうか、あるいは、雨を受ける面積を増やすためだろうか。
遊牧民はマッシュルーム形やぶきの家に住む。このあたりは、地震地帯。日干し煉瓦を積んだ家は、崩れたら、始末が悪い。新しく作られた広い道路では、駱駝の群れが、ゆっくりと横断中。車は待つしかない。

5)南イエメン

オスマントルコの進出支配に拮抗して、イギリスもイエメンに進出した。アデン港が占領されたのが1839年。さらに、英保護領アデンが出来たのが1888年。このとき以来、1990年の南北合併まで一世紀、イエメンは二つの国に分かれることになる。

北イエメンとソコトラ島の旅を終えて、我々は、ソコトラ島から南イエメンのムッカラに飛んだ。此処からは、お決まりの4駆を連ねて、中央高地に向かう。1時間半ほど走った、山の頂上の検問所で、足止めを喰らう。下の第一検問所に、立ち寄らなかったのが、原因らしい。電話連絡の結果、第一検問所から、所長が来るという。所長の面子が立って、我々が出発できたのは、ほぼ2時間後。
日が落ちると、山岳地帯の空気は急に冷え込む。退屈しのぎに、ドライバーが踊りだした。僕もつられて踊りだし、男ぶり、女ぶりと変化してみせる。ついでに、空手の形も披露する。この一帯では空手の人気が高い。
検問所にはトイレがない。男性の雉撃ちは、何ら問題ないのだが、女性の花摘みは、隠れるブッシュもない。岩陰を探すのに、苦労した由。夕暮れの空には、鳥達が舞っていた。

南イエメンの旅行中は、すべて護衛つき。パトカーが先導することもあったが、兵隊さんが、一号車に乗り込むことも有った。検問所に着く度に、警備の兵隊さんが交代する。
足止めの原因は、このローテーションを狂わせたことらしい。
帰り道、第一検問所から、ホテルまでは、パトカーがサイレンを鳴らしながら先導してくれた。市内を100キロを越すスピードで走る。足止めの、お詫びのしるしらしい。

氷河期と間氷期が、繰り返されていた、100万年ほど昔、現在の砂漠にも、雨が降って、川が流れた。その川が削り取った地形が、ワジと呼ばれる枯れ川である。高緯度地方では、氷河に削られた跡がフィヨルドになった。低緯度地方では、急流の川に削られた跡がワジになった。どちらも、考えられないほど大きな削り跡である。川幅の広いところでは、15キロもある。イエメンの台地には、そんなワジが無数に走っていた。空から眺めると、平地よりも、ワジのほうが多いくらいに見える。
砂漠の時代が始まると、ワジに残っている地下水を求めて、太古の川底に、人々が住み着いた(=下の村)。ワジにそって、通商路が開かれた。人々が豊かになると、砂漠の略奪から身を守るために、ワジの岸の高台に城砦を築いた(=上の村)。

南イエメンの、ワジには、今でも夏になると水が流れる。その水のおかげで、肥沃な土地が生れる。砂漠の摩天楼と言われる、世界遺産・シバームは、そんな、ワジの真ん中にある城塞都市。城壁で囲まれた町には、城門は一つしかない。豊かな商人達が、砂漠の略奪から身を守るためである。
サアナも美しい街を見てきたものには、シバームは、やや物足りない。しかし、6−9階建てのビルの構造は、サアナと同じである。良く見ると、ビルの高層階には、隣のビルとの連絡通路が設けられていることが多い。下から襲われた時に、避難するためだと言う。紀元前4世紀頃に作られたと言うが、現在でも1万に程の人が住む。

サユーンでは、イギリス領アデン時代に、この地帯一帯を治めていたスルタンの城を訪れる。博物館もあり、ダンスの舞台もある。地方のリッチな殿様の家といった感じ。

サユーンもタリムも広いワジの中の町である。ワジの岸である岩山と、その裾に建つ町は
日本では見られない変わった風景である。
タリムでは、東南アジア貿易で、財をなしたという商人の豪邸を見た。1935年の建築だと言うが、土で作られた、その豪邸は、既に裏寂れていた。インドネシアやマレーシアは、同じイスラム教徒。このあたりでは、彼らとの混血も多いとか。同じ英領内の、マレーシアへの移動は、容易だったのであろう。

サユーンから、ムッカラまでの帰り道は、ワジ・ドアンに沿って走った。ベルギー人が銃撃されたルートである。たった2−3時間の観光だが、僕にとっては、今回のメイン・イヴェント。旅の最後を飾るに、ふさわしい眺めであった。
高台にある村から、幅の広いワジのパノラマを楽しむ。広い川原には椰子が茂り、畑もある。
ブクシャーンの崖では、ワジの崖下に町を眺めた。ワジに沿っての交易路の街であろうか。
崖の上に、現在建設中のホテルの庭からは、ワジの中ノ島に立つ集落を眺められる。白く見える現在の枯れ川は、夏には水が流れるのであろう。その両側には椰子が茂っている。それにしても、どのようにしてこの集落に行くのだろうか。道など見当たらない。

ムッカラから、サアナに戻り、ドバイ、関空を経由して、羽田に戻った。


旅行写真
サアナの旧市街。
サアナの旧市街。

No.1
天空の村
天空の村

No.2
天空の貯水池
天空の貯水池

No.3
段々畑(1)
段々畑(1)

No.4
段々畑(2)
段々畑(2)

No.5
天空の道
天空の道

No.6
護衛されて観光
護衛されて観光

No.7
泥で出来たビル
泥で出来たビル

No.8
高原の入口
高原の入口

No.9
ホッジャの要塞
ホッジャの要塞

No.10
ジャンビアとカート
ジャンビアとカート

No.11
要塞とモスク
要塞とモスク

No.12
マッシュルームの家
マッシュルームの家

No.13
砂漠の木
砂漠の木

No.14
駱駝が通る
駱駝が通る

No.15
シバーム
シバーム

No.16
ワジ(4)
ワジ(4)

No.17
ワジ(1)
ワジ(1)

No.18
ワジ(2)
ワジ(2)

No.19
ワジ(3)
ワジ(3)

No.20