イエメン紀行 |
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1)イエメン共和国。 南北に分かれての、内戦が終わって、観光客が入れるようになったのが、10年ほど前。 でもまだ、外務省の危険情報によると、渡航延期推奨地帯も残っている。 今年の1月、ベルギー人観光客が銃撃され、観光客2名と、運転手2名が死亡する事件があった。昨年7月にも、スペイン人観光客17人が死傷している。決して安全な国ではない。 それでも行くのが、物好きな日本人。我々のグループは13人。全員70歳前後。4組のご夫婦と、一人参加は男2人女3人。ま、いつ死んでも、悔いはない連中である。 羽田から、関西空港を経由して、ドバイで乗り換え、イエメンの首都・サアナまで約20時間。エミレーツ航空の機体はいいけど、従業員はいまいち。国際的な混成チームで、統制が取れていない。 入国審査では、イスラエルの入国記録があると、入国を拒否される。パキスタンやイランの出入国記録があると、警戒される。イエメンの旅行代理店の保証がない個人旅行者も入れない。安全確保のために、団体客だけを受入れる方針だとか。 お酒の持ち込みは2本までOK。僕はウィスキーを2本持ち込んだ。ホテルの部屋で飲む分には、合法である。しかし町では、アルコールは売っていない。唯一、サアナのシェラトンにはビールがあった。ハイネケンの350ミリ缶が11ドル。イスラムの国を旅行するのもいいが、非イスラム教徒にまで、禁酒を強制するのは頂けない。イランを旅行して、そんな国にはもう行くまいと思った。サウジアラビア、リビア、アルジェリアなど、飲酒の取締りの厳しい国には、絶対に行きたくない。 昔の地図を見ると、イエメンは二つの国に分かれている。イエメン・アラブ共和国(=北イエメン)は、1918年に、オスマントルコのくびきから逃れて、独立した国。今一つ、イエメン民主人民共和国(=南イエメン)は、昔のイギリス領アデンが1967年に独立した国。現在のイエメン共和国は、この二つが、1990年に統一されたものである。現在のイエメンを見るときには、同じ民族の国とはいえ、分割されて支配された歴史が長いだけに、まだ、北と南に分けて眺めるほうが良いのかもしれない。 イエメンを眺める上で、もう一つの要素は、地形と気候による分類である。 第一は、山岳地帯の高原の温暖気候。第二は、紅海やアラビア海沿岸の熱帯性気候。 第三は、ワジ(=枯れ川)に沿って発達した、通商路。そして第四は、人の住めない灼熱の砂漠である。 今回の旅では、北イエメンで第一と第二の地区を周遊、南イエメンでは第三の地区を観光した。これは、そんな旅行記である。 2)高原都市 北イエメンの中央部には、南北に山脈が走る。この一帯は、乾燥気候であるにも拘らず、この山脈のおかげで、山の中腹には、雨が降る。人間、水のない砂漠には住めないが、水さえあれば、険しい山の上でも住むことが出来る。首都のサアナは、標高2300メートルの高原都市。第二の都市タイズも、標高1300メートルの高原都市である。 サアナの旧市街は、世界最古といわれる町。世界遺産である。ノアの洪水のあと、ノアの息子がこの町を築き、紀元前7世紀頃、シバの女王がこの町を治めたという伝説もある。イエメンのどの町よりも、この町は美しい。紀元前に、乳香の貿易で栄えた、シバの女王の栄華を偲ぶことが出来る。 城門の中に立ち並ぶ家々は、すべてが、6−9階建ての伝統住宅。しかし、集団住宅ではなく、一家族の居住用。階ごとに、役割が決まっていて、下から、家畜小屋、台所、寝室、生活空間、と続いて、最上階は、カートで寛ぐ、マフラージと呼ぶサロン。豊かな交易商人たちの集まった町である。 建物の土台部分は、石でできているが、その上は、日干し煉瓦を積み重ねて、漆喰で固めたもの。壁は、暑さを防ぐために、50センチほどの厚さがあり、日本の土蔵のように、窓は小さい。その窓には、それぞれの個性的な装飾が施されている。 我々は、旧市街の中央を走る高速道路の出口から、バーブアルヤ門まで歩く。道は細いので、車は旧市内には入れない。 シバの女王の王朝を継ぐ、古代南アラビア王国の一つ、ヒムヤル王国は、西暦紀元前後に、インドや東南アジアと、ギリシャ・ローマを結ぶ中継貿易で栄えた国。フェニキア文字を使っていたと言う。灌漑も行われて、豊かな国であったらしい。しかし、ササン朝ペルシャの興隆によって、インドとの貿易ルートがペルシャ湾経由に変わり、イエメンの没落が始まった。また、キリスト教やイスラム教の興隆によって、乳香が、宗教儀式に使われなくなったことも、もう一つのイエメン没落の原因らしい。貿易路は、やがて、シルクロードに変わり、イエメンは中東の僻地に没落する。 サアナの西北の山岳地帯にあるコフランは、そんなヒムヤル王国時代の村。段々畑のある山道を登ってゆくと、突然目の前の山頂に、ビルの集落が浮かび上がった。天空の町ラピュタを思い浮かばせる。天空の村と、対を成す、山の中腹の村から、天空の村を眺めると、雲がかかっている。天空の村には、大きな貯水池があった。こんな山の頂に、貯水池を作るなんて、当時の灌漑技術水準は、世界の最先端であったであろう。現在でも、水を汲みに来た女達がいた。 イエメンの高原地帯を旅すると、至る所で、段々畑の風景に出くわす。中国の貴州省でみた、穏やかな棚田風景とは違い、自然の荒々しさを感じさせる段々畑である。中国の棚田には、十分な水と土がある。しかし、イエメンの段々畑は、少ない土を石で囲ったもの。どんな作物が出来るのだろうか。急斜面の段々畑は、マチュピチュにも劣らない。 コフランからアムランに抜ける道は、カラコルム・ハイウエイに勝るとも劣らぬ天空道路。中国の技術援助による建設だと言う。砂漠の道路といい、山岳の道路といい、多分、中国の技術は世界一ではないかと思う。 サアナの北にあるアムラン州は、昨年の7月に、スペインの観光客が、テロに出会ったところ。外務省の分類でも、「十分注意してください」よりも、危険度の高い「渡航の是非を検討してください」になっている。でも、イエメン政府は、観光客誘致にご執心。観光省や、観光警察まで作っての、努力中である。 あらかじめ、届けてあった、旅行計画表にしたがって、今朝は、ハッジャのホテルまで、観光警察のパトカーがお出迎え。ハッジャから、コフラン、アムランという、アムラン州内の山岳地帯の移動中には、パトカーが先導。観光で降りたときには、カラシニコフを担いだ兵隊さんが、いつも歩哨に立ってくれた。 ヒムヤル王国は、在来の多神教に、ユダヤ教、キリスト教などが伝えられ、それが、社会に亀裂をもたらした。最後のヒムヤル王(487-525)は、キリスト教徒を虐殺したために、 キリスト教徒であるエチオピアに国を奪われることになる。その後の、イエメンの支配権は、エチオピアから、ササン朝ペルシャに移り、さらに、イスラム帝国に移る。イスラム帝国の辺境の地となったイエメンでは、イスマイル派、シーア派、ザイド派などの、抗争が絡んで、数々の地方政権王朝が、めまぐるしく交代した。 アムランの町は、イスラム帝国初期に築かれたもの。サアナから、コフラン、さらにアムランと眺めると、時代が新しくなるに従って、建物が貧しくなり、優美さが失われて行ったように思われる。アムランの建物は、何処となくアフリカの匂いがする。サハラ砂漠の中の都市、トンブクツやジェンネの泥の家。そんな遠くからの影響があるとは思えないのだが、あるいは、エチオピアの占領の結果かもしれない。エチオピアに出かけて、確かめたくなってきた。僕の、物好きの虫が動きだした。11月頃の出発を計画しよう。 3)オスマントルコの要塞。 イエメンが再び世界の注目を浴びたのは、16世紀。地中海、スエズ、紅海からインド洋と続く道の、重要拠点としての、イエメンである。ペルシャ湾の入口であるホルムズ海峡を、ポルトガル海軍が制圧した事に対して、オスマントルコは、紅海の制海権を求めて、イエメンに進出した。その後も、オスマントルコによる干渉・支配は、第1次大戦で、オスマントルコが崩壊するまで、いろいろな形で継続した。北イエメンが独立したのは、1911年である。 イエメンを旅行していると、オスマントルコの要塞が、各地で見られる。 ホッジャは山岳地帯への北の入口。下から眺めるホッジャの町は、まさに天空都市。 険しい山の上が平で、そこに町が浮かんでいる。日本では見られない不思議な風景である。しかし、遠くから見ると平らでも、近くに行くと起伏の多い土地。その一番高いところに建っているのが、オスマントルコの要塞。我々のホテル『ガムダン』も、高台の一角にあった。なかなか素晴らしいホテルである。此処から要塞が良く見える。 ハッジャが、高原地帯への北の入口なら、南の入口はタイズ。当然、この町にも、トルコ軍の要塞があった。タイズは、イエメン第二の都市で、人口は30万ほど。12世紀頃に築かれた城塞都市だが、今では、イエメンの商業の中心地。周辺では農耕が営まれ、なんとなく豊かな雰囲気が漂う。 この国の半分以上の男性は、カートを噛む。お茶の葉に似た、一種の興奮剤である。お茶の葉よりは、苦味が少ない。習慣性があるので、この国以外では、麻薬扱いとか。口を膨らませて、カートを噛んでいる姿は、なかなかユーモラスなので、写真を撮ろうとしたら、「見苦しいから嫌」と断られた。 カート代は1日平均3ドル。月にすると100ドル近い。我々のドライバーの一人は、奥さんが2人で子供が8人。だからカートは噛まないという。この国の収入水準からすると、2番目の奥さんを持つ費用と、カートを噛む費用は、似たようなものらしい。 この国の経済の三分の一はカート関連産業だと言う。タイズ郊外では、そんなカートが、沢山栽培されていた。カートは、若芽の部分を切って、束にして売る。 町のあちこちに、間口1メートルほど、カート専門店がある。ちょうど、昔の日本のタバコ屋といった所。買ったカートは、濡れタオルに包んで、鮮度を保つ。午後になると、眠気覚ましだといって、我々のドライバーも、護衛の兵隊さんたちも、半分以上が、口を膨らませていた。 今回の旅では、行く先々でモスクを見せられた。しかし、イスラム文化の知識のない僕には、豚にコーラン、馬の耳に念仏である。京都の破れ寺で、その寺の由緒を聞くのと同じ。 ちっとも、面白くない。だから、この日記では、モスクのことは割愛した。 イエメンの男達は、腹に太いベルトをしめ、お臍の前に、ジャンビアと呼ばれる短剣を挿している。日本のサラリーマンのネクタイと同じらしい。このジャンビア、外見は立派に出来ているが、刃の付いていない模造品。竹光に近い。おみやげ物屋でも、5−10ドルで売っている。ドライバーとのおふざけで気付いたのだが、このジャンビアは逆手に構える。日本人なら、多くは順手に構えるのと、全く逆である。 このジャンビア、ホテルのトイレでは威力を発揮する。普段は、男でも座って小雉を撃つ。砂漠のつむじ風に、会わないようにするには、これがいい。しかし、ホテルの朝顔便所では、立って用をたすしかない。スカートを捲り上げて、その先をジャンビアに挟む。 4)沿岸部の砂漠地帯 タイズから、山道を下ると、次第に貧しくなる。暑さも増す。高原のタイズから、海岸のモカへの道は、現在建設中。砂塵の舞う仮道路から眺める、工事中の本道路は、なかなか、しっかりとした基礎工事。この砂漠の中の道路建設も、やはり中国の技術援助だとか。歴代、中国は土木工事の先進国である。 モカはコーヒーの積出港として栄えた港。イギリスが商館を設けたのは、1618年。しかし、今は寂れて、その面影は全くない。壊れかけた建物が僅かにあるのみである。因みに、現在の「モカ・コーヒー」は、エチオピア産と、イエメン産のコーヒーの総合ブランドだと言う。 モカの近くの世界遺産・ザビートの旧市街も廃墟と言う言葉がふさわしい。13−15世紀には、学問の町として、栄えた由だが、半分、崩れかかったような、日干し煉瓦積からは、そんな栄華は、全く感じられない。世界遺産というには、あまりにも惨めな姿である。シャッターを押す気にもならなかった。 旧市街の隣にある、オスマントルコの要塞に登ると、何処からか、子供や若者が、湧き出てきた。仕事もなく、塾もなく、暇をもてあましているらしい。ただ、ものめずらしそうに、我々を眺めているだけである。要塞から眺めると、町にはゴミだらけ、ポリエチレンの青や赤の袋が、空に舞っていた。 ザビートでの昼食のレストランは、アフリカ風。対岸のソマリアあたりの影響であろうか。 モカから、ホデイラまでの、海岸線の北上は、単調な旅だが、それなりに面白いものも見つけた。ステップに生えている木の形が面白い。皆、上に伸びないで、横に開いている。根元に木陰を作るためであろうか、あるいは、雨を受ける面積を増やすためだろうか。 遊牧民はマッシュルーム形やぶきの家に住む。このあたりは、地震地帯。日干し煉瓦を積んだ家は、崩れたら、始末が悪い。新しく作られた広い道路では、駱駝の群れが、ゆっくりと横断中。車は待つしかない。 5)南イエメン オスマントルコの進出支配に拮抗して、イギリスもイエメンに進出した。アデン港が占領されたのが1839年。さらに、英保護領アデンが出来たのが1888年。このとき以来、1990年の南北合併まで一世紀、イエメンは二つの国に分かれることになる。 北イエメンとソコトラ島の旅を終えて、我々は、ソコトラ島から南イエメンのムッカラに飛んだ。此処からは、お決まりの4駆を連ねて、中央高地に向かう。1時間半ほど走った、山の頂上の検問所で、足止めを喰らう。下の第一検問所に、立ち寄らなかったのが、原因らしい。電話連絡の結果、第一検問所から、所長が来るという。所長の面子が立って、我々が出発できたのは、ほぼ2時間後。 日が落ちると、山岳地帯の空気は急に冷え込む。退屈しのぎに、ドライバーが踊りだした。僕もつられて踊りだし、男ぶり、女ぶりと変化してみせる。ついでに、空手の形も披露する。この一帯では空手の人気が高い。 検問所にはトイレがない。男性の雉撃ちは、何ら問題ないのだが、女性の花摘みは、隠れるブッシュもない。岩陰を探すのに、苦労した由。夕暮れの空には、鳥達が舞っていた。 南イエメンの旅行中は、すべて護衛つき。パトカーが先導することもあったが、兵隊さんが、一号車に乗り込むことも有った。検問所に着く度に、警備の兵隊さんが交代する。 足止めの原因は、このローテーションを狂わせたことらしい。 帰り道、第一検問所から、ホテルまでは、パトカーがサイレンを鳴らしながら先導してくれた。市内を100キロを越すスピードで走る。足止めの、お詫びのしるしらしい。 氷河期と間氷期が、繰り返されていた、100万年ほど昔、現在の砂漠にも、雨が降って、川が流れた。その川が削り取った地形が、ワジと呼ばれる枯れ川である。高緯度地方では、氷河に削られた跡がフィヨルドになった。低緯度地方では、急流の川に削られた跡がワジになった。どちらも、考えられないほど大きな削り跡である。川幅の広いところでは、15キロもある。イエメンの台地には、そんなワジが無数に走っていた。空から眺めると、平地よりも、ワジのほうが多いくらいに見える。 砂漠の時代が始まると、ワジに残っている地下水を求めて、太古の川底に、人々が住み着いた(=下の村)。ワジにそって、通商路が開かれた。人々が豊かになると、砂漠の略奪から身を守るために、ワジの岸の高台に城砦を築いた(=上の村)。 南イエメンの、ワジには、今でも夏になると水が流れる。その水のおかげで、肥沃な土地が生れる。砂漠の摩天楼と言われる、世界遺産・シバームは、そんな、ワジの真ん中にある城塞都市。城壁で囲まれた町には、城門は一つしかない。豊かな商人達が、砂漠の略奪から身を守るためである。 サアナも美しい街を見てきたものには、シバームは、やや物足りない。しかし、6−9階建てのビルの構造は、サアナと同じである。良く見ると、ビルの高層階には、隣のビルとの連絡通路が設けられていることが多い。下から襲われた時に、避難するためだと言う。紀元前4世紀頃に作られたと言うが、現在でも1万に程の人が住む。 サユーンでは、イギリス領アデン時代に、この地帯一帯を治めていたスルタンの城を訪れる。博物館もあり、ダンスの舞台もある。地方のリッチな殿様の家といった感じ。 サユーンもタリムも広いワジの中の町である。ワジの岸である岩山と、その裾に建つ町は 日本では見られない変わった風景である。 タリムでは、東南アジア貿易で、財をなしたという商人の豪邸を見た。1935年の建築だと言うが、土で作られた、その豪邸は、既に裏寂れていた。インドネシアやマレーシアは、同じイスラム教徒。このあたりでは、彼らとの混血も多いとか。同じ英領内の、マレーシアへの移動は、容易だったのであろう。 サユーンから、ムッカラまでの帰り道は、ワジ・ドアンに沿って走った。ベルギー人が銃撃されたルートである。たった2−3時間の観光だが、僕にとっては、今回のメイン・イヴェント。旅の最後を飾るに、ふさわしい眺めであった。 高台にある村から、幅の広いワジのパノラマを楽しむ。広い川原には椰子が茂り、畑もある。 ブクシャーンの崖では、ワジの崖下に町を眺めた。ワジに沿っての交易路の街であろうか。 崖の上に、現在建設中のホテルの庭からは、ワジの中ノ島に立つ集落を眺められる。白く見える現在の枯れ川は、夏には水が流れるのであろう。その両側には椰子が茂っている。それにしても、どのようにしてこの集落に行くのだろうか。道など見当たらない。 ムッカラから、サアナに戻り、ドバイ、関空を経由して、羽田に戻った。 |
旅行写真 |
サアナの旧市街。 No.1 |
天空の村 No.2 |
天空の貯水池 No.3 |
段々畑(1) No.4 |
段々畑(2) No.5 |
天空の道 No.6 |
護衛されて観光 No.7 |
泥で出来たビル No.8 |
高原の入口 No.9 |
ホッジャの要塞 No.10 |
ジャンビアとカート No.11 |
要塞とモスク No.12 |
マッシュルームの家 No.13 |
砂漠の木 No.14 |
駱駝が通る No.15 |
シバーム No.16 |
ワジ(4) No.17 |
ワジ(1) No.18 |
ワジ(2) No.19 |
ワジ(3) No.20 |