メッセージを送る 
秋田の聖母出現 その1
旅行先 : 秋田

ある出来事について検討するとき、それに関わった人物や時代など、いろいろな角度から眺めることが可能ですが、ここでは出現という中心課題のみに焦点をしぼって出来るだけ簡単にまとめてみたいと思います(文中の太字は編者)。

その1 <その概観> <その内容と要請> <その客観的現象>
その2 <天使の働き> <その祈り>

《参考文献》

カトリックグラフ特別取材班著『極みなく美しき声の告げ』山内継祐編(コルベ出版社1980年5月増補版)。

安田貞治著『現代の奇跡 秋田の聖母マリア ―聖母像の涙とメッセージ―』(聖体奉仕会1987年8月第3刷)。

『現代の危機を告げる ファチマの聖母の啓示――ルチア修女の手記』ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥共訳編(ドン・ボスコ社1992年5月3版)。

志村辰弥編著『聖母像から血と涙』(カトリック東京司祭の家1993年11月第7版2刷)。

安田貞治著『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』(エンデルレ書店2003年第1版2刷)。

『聖体奉仕会60年のあゆみと涙のマリア像 秋田の小さな修道院の物語』(聖体奉仕会修道院監修、秋田文化出版編集発行2006年3月)。


<その概観>

1.出現の場所

日本の秋田市添川湯沢台1にある在俗修道会内。

2.出現を受けた人

全聾の在俗修道会修練女1人。
笹川カツ子(1931年5月28日生)。
聖母の姿(木彫の像に光の姿が重複)を見て、その声を聞き、(以心伝心で)対話した。

3.出現の年月日、場所名、出現者

年月日        場所名            出現者

1973年 6月12日  聖体奉仕会聖堂        聖櫃から光
1973年 6月13日   同上            聖櫃から光
1973年 6月14日   同上            聖櫃から光、聖体ランプの炎上
1973年 6月24日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
1973年 6月28日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
1973年 6月29日   同上            顕示された聖体から光
                          聖体を礼拝する無数の天使
女性の姿
1973年 7月 5日    同上            女性の姿
1973年 7月 6日    同上(修室から聖堂へ)   女性の姿(守護の天使)
                          聖母像が光に包まれ、声がひびく
1973年 7月27日   同上             守護の天使
1973年 8月 3日    同上            守護の天使、聖母像から声
1973年 9月29日   同上             聖母像が白く輝き、両手から光
                          守護の天使
1973年10月 2日   同上             聖変化の聖体から光
                          ミサの参加者の守護の天使8位
1973年10月 7日   同上             守護の天使
1973年10月13日   同上            聖櫃から光、
光り輝く聖母像から声
守護の天使
1975年 1月 4日    同上            守護の天使
1976年 5月 1日    同上             守護の天使
1981年 9月28日   同上             開かれた聖書、天使の声
上記以外に、守護の天使の私的共同体的な出現を頻繁に受ける。


<その内容と要請>

秋田の聖母出現は、日本の教会史上初めての本格的な出現であり、カトリック教会から公認されています。そのメッセージの内容も、人類全体の未来に関わる重大なものなので、聖母と守護の天使からの公的なメッセージについては省略せずに記すことにしました。

1973年6月29日(金)イエズスの聖心の祝日 午前9時頃 女性の姿、無数の天使
右に現われた女性の姿が、聖体礼拝のロザリオの祈りをいっしょに先唱する。無数の天使が、光り輝く聖体に向かって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美する。右に現われた女性が「すべての民の母」の祈りを唱える。

1973年7月6日(初金)午前3時頃 女性の姿(守護の天使)、聖母像から光と声
「(6月28日夕方から現われた笹川の左掌の傷について)恐れおののくことはない。あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷(編者:木彫の聖母像の右掌の部分から出血現象)は深く、痛んでおります。さあ行きましょう」。
その女性の顔を見て、思わず「お姉さん!」と呼びかけた笹川に、ほほえんで頭を軽く振り「わたしは、あなたに付いていて、あなたを守る者(守護の天使)ですよ」と言う。
守護の天使に導かれて聖堂へ行く。聖母像が目もくらむほどの光につつまれているのに気づいて、おもわずその場にひれ伏すると、極みなく美しい声がひびいてくる。

〔聖母マリア様からの最初のお告げ〕
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」。
聖母像からの声と、守護の天使の声にあわせて祈ると、伊藤庄治郎司教の起草された「聖体奉仕会の祈り」の「御聖体のうちにまします」の部分に一語を加えて「御聖体のうちにまことにまします」と唱えるようにと教えられる。
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」。

1973年7月27日(金)午後2時半 守護の天使
〔出血現象についての天使の説明〕
「(笹川の左掌の傷の激痛について)その苦しみも、今日で終わります。マリア様が御血を流されるのも今日で終わりますよ。マリア様の御血の思いを大切に、心に刻んでください。マリア様が御血を流されたのには、大事な意義があります。あなた方の改心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。聖心(みこころ)の信心とともに(主の)聖血(おんち)の信心も大切に。すべての人たちの償いのために祈ってください」。
「御血が流されることは今日で終わることを、あなたの長上に話しなさい。あなたの痛みも今日で終わりますよ。今日のことを長上に話しなさい。長上はすべてのことをすぐ解ってくれます。そしてあなたは長上の御指示に従いなさい」。

1973年7月28日 伊藤庄治郎司教への報告のあと
伊藤庄治郎司教からの出現者への三つの質問
1.私たちの会を、神様がお望みであるかどうか。
2.また、このままのかたちでよいのかどうか。
3.在俗であっても観想部が必要かどうか。

1973年8月3日(初金)午後2時頃 守護の天使、聖母像から声
守護の天使「何か尋ねたいことがあるでしょう。さあ、遠慮なく申しなさい」。

〔聖母マリア様からの第2のお告げ〕
聖母像から声「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主(みあるじ)をお慰めするために祈ってください」。
「あなたが心の中で思っていることは、まことか? まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」。

1973年9月29日(土)大天使聖ミカエルの祝日 昼食後 聖母像全体が白く輝く、両手からまぶしい光
笹川といっしょにロザリオを祈っていたシスターが、聖母像の右掌の傷がなくなっているのに気づく。
      同日夕方 守護の天使
晩の祈りの終わりごろ、聖母像がテラテラと光り始める。最前列のシスターの一人が、聖母像から汗のようなものが流れ始めているのに気づく。
〔発汗現象についての天使の説明〕
守護の天使「マリア様が、おん血を流されたときよりもお悲しみになっておられますよ。お汗をふいておあげなさい」。
汗をふいた脱脂綿から天国的な芳香。

1973年10月2日守護の天使の祝日 午前6時半のミサ 聖変化の聖体から光
輝く聖体に向かって礼拝している天使8位。祭壇を半円形にかこんでひざまずいている。
聖体拝領のときに、シスターたちの右に付き添うそれぞれの守護の天使の姿。

1973年10月7日ロザリオの祝日 守護の天使
「(9月29日から聖堂にたちこめた芳香について)この香りはいつまでつづくかしら。ロザリオの月(10月)いっぱいつづいてほしい……」という思いがうかぶ。
〔芳香現象についての天使の説明〕
守護の天使「十五日までですよ。それ以上は、この世にあって、この香りをかぐことはないでしょう。かぐわしい香りのように、あなたも徳を積んでください。一心に努力すれば、マリア様の御保護によって成し遂げられるでしょう」。

1973年10月13日ファティマ太陽の奇跡の日 聖体礼拝 聖櫃から光、聖母像から芳香
       同日朝食後   光り輝く聖母像から声

〔聖母マリア様からの第3のお告げ〕
聖母像から声「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」。
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと償いの業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」。
「あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。
ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」。

この第3のお告げの部分については、安田神父「巷間に流れている“ファチマの第三の秘密”のいわば“焼き直し”ではなかろうか、という疑念を(伊藤司教は)もたれた」。司教はこの点に関し、何度も笹川に質問を繰り返して確められたという。

編者は、そこで問題となっている巷間に流布されたファチマ第3の秘密を、比較検討のために以下に掲載することにした。(編者による太字は、両者の間でテーマの異なる個所)。

〔当時、巷間に流布されていたファチマ第3の秘密〕
「20世紀の後半において、次の大きな試練が人類の上に下るであろう。
民は神の恩恵を足蔑(あしげ)にし、各地において秩序が乱れる。(編者:神の恩恵とはミサにおける御聖体のことではないのでしょうか)。
国家の最高部をサタン(悪魔)が支配し、世相はサタンによって導かれる。
教会の上部にもサタンが入り込む。殊にサタンは学者の頭を混乱させる。
全人類の大半を数分のうちに滅ぼすほどの威力を持つ武器が造り出される。
カルジナルはカルジナルに、司教は司教に戦いをいどむ。
神の罰は洪水(ノエの洪水)の時よりも悲惨である。偉大な者も小さい者も同じく滅びる。
20世紀後半において大いなる戦争が起こる。腐ったものは堕ちる。堕ちたものはもうこれを支える力がない。(編者:これはひょっとして、霊的な戦いのことではないのでしょうか)。
火と煙が降り、大洋の水は蒸気のように沸き上がる。
その艱難によって地上の多くのものが破壊され、無数の人が滅びる。生き残ったものは死んだものを羨むほどの艱難に襲われる。
もし最後の時が近づいて、人類が自ら改心しなければ、世の苦しみはいっそう深刻化する。
善い者も悪い者も、牧者はその信徒と共に世の支配者はその民と共に滅んで行く。
到る処で死が勝利の歌を歌う。荒れ狂った者が凱歌をあげる。彼らは唯一の支配者サタンの配下である。
これらがすべて終わった後、世は神に立ち帰り、聖母マリアは御子イエズスのあとに従った者の心を呼び起こす。
キリストは単に信じるのみでなく、キリストのために公の場所で、その勝利を勇敢に宣言する人を求めている。よき信徒、よき司祭は彼らの兄弟から軽蔑され、攻撃されるだろう。
隣人に向かって真理の言葉を告げる者のみが真の愛を持っている」。

上記のものは、1963年10月15日ドイツのニュース・エウロパ紙発表のもの。
ルイス・エメリック記者によると、この秘密書類は1960年教皇ヨハネ23世によって開封されたが、公表は時局にふさわしくないということで封じられました。教皇パウロ6世になって、各国に核兵器が増強され戦争の危機が高まってきたので、教皇はその世相に心を痛め、指導者の反省を促すために、原文を外交的にやわらげて、各国の首脳および司教団に送ったと言うのです。
教皇ヨハネ・パウロ2世は、1980年ドイツを訪問して、これについて質問を受けたとき、その事実を認めた解答をしておられます。
(1963年エウロパ紙発表のファチマ第3の秘密と解説は、前記参考文献『ファチマの聖母の啓示』から抜粋引用)。
(編者:1963年エウロパ紙発表のものと、2000年教皇庁発表のものとの内容に、あまりにも差異のあることが、ファティマ第3の秘密の、まだ公表されずに残されている部分があるのではないか、という疑念を読者に抱かせる原因の1つになっています)。

1975年1月4日(初土)午前9時頃 聖母像からの落涙現象の始まり、同日中に3回
      同日午後6時半頃 準会員の奉献式が終わって念祷のとき
〔落涙現象についての天使の説明1〕
守護の天使「聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。
今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている“聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!”との願いをこめての祈りは喜ばれています。
聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。
このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい」。

1976年5月1日勤労者聖ヨゼフの祝日 午後8時過ぎからのミサのあと 守護の天使
〔落涙現象についての天使の説明2〕
「“世の多くの人びとは聖主を悲しませております。私は聖主を慰める者を望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人びとの忘恩、侮辱の償いのために改心して祈ってください。ロザリオの祈りはあなた方の武器です。ロザリオの祈りを大切に、教皇、司教、司祭のためにもっとたくさん祈ってください”
この(マリア様の)みことばを忘れてはなりません。聖母はいつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまとおん父に捧げられる霊魂を望んで涙を流しておられるのです。外の妨げにうち勝つためにも、内なる一致をもって、みなが心を一つにし、信者はもっと信者の生活をよくして、改心して祈ってください。
聖主と聖母の御光栄のために、今日の日を大切に。みなが勇気をもって一人でも多くの人びとにこの信心をひろめてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導く方に告げなさい」。

1981年9月28日ロザリオの祝日へのノヴェナの初日 聖体礼拝 開かれた聖書、天使の声
神秘的な光を帯びた大きな美しい聖書が目の前に開かれ、ある個所を読むように指示される。
そこに“3章15節”という数字をみとめたときに、天使の声が説明。
〔落涙現象についての天使の説明3〕
「聖母像の涙はこの個所に関係があります」。
「お涙の流されたこの101回という数字には、深い意味があります。一人の女によって罪がこの世に入って来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に入って来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです。創世記の三章十五節を読みなさい。このことをあなたを導いておられる神父様に伝えなさい」。


<その客観的現象>

ここで言う客観的現象とは、出現を直接的に受けたシスター笹川以外の第三者(他のシスターや巡礼者たち、訪問客等)によって認められた、通常ではない現象のことを言います。

1973年6月29日午前9時聖体礼拝 第三者はシスター小竹サキ(修練長)1人
シスター小竹サキ「いつも早口の彼女が、非常にゆっくりロザリオを唱えたのがふしぎで、あとでその理由を聞いてみたら、天使がそのように唱えるから、と言いました」。

1973年6月30日 伊藤司教から8月誓願の許可が出たあと シスター小竹
笹川が左手をかばう様子をシスター小竹が見とがめる。
笹川の左掌の中央にくっきりと十字架の形のみみず脹れ。
小竹はそれを見て思わず「なんと神秘な色!」とつぶやく。
「なぜ司教様に、お帰り前にお見せしなかったの」ととがめると、「こわくて…」と笹川。

1973年7月5日夕食後の修室 シスター小竹、池田智恵(会長代理)
シスター小竹「あの晩は町のある婦人から夕食に招かれ、支部に泊るつもりで出たのですが、どうも笹川さんのことが気になって、山に帰ることにしたのです。すぐ部屋に行ってみると、彼女はベッドに腰をかけて編み物をしていました。わたしの問いに、手をやっと開いて見せて『あまり痛いので編み物をしています』と涙をいっぱいためています。『こうなったのは、わたしの罪が深いからかしら』と心を痛めている様子でした。わたしは、それが聖主(みあるじ)からのおくりものであることを直感しましたが、『痛いでしょうけど、聖主のお苦しみを思ってがまんしてくださいね。わたしたちの分まであなた一人に負わせてごめんなさいね』といたわりなぐさめて、目上の池田さんを呼びに行きました。
それから二人でガーゼと包帯で傷の手当てをして、夜中にあまり苦しいようだったら、わたしたちを起こすように、といって部屋を出たのでした」。

1973年7月6日 木彫の聖母像の右掌に十字形の傷と出血 小竹、柏木、シスター全員
小竹「町の修道院の御ミサに与ってから帰ってくると、玄関で笹川さんが次のように申しました。『マリア様の御像に何か変わったことがないか、見て頂けないでしょうか。今朝、マリア像について言われたことがあり、心配なのです』
わたしはそれを聞いてすぐ聖堂へ行き、聖母の木彫の像の前に立ってみると、右の手のひらに黒々とした十字の印がついていました。それは細いマジック・ペンで描いたようにも見え、タテ1.5センチ、ヨコ1.3センチくらいのものでありました。わたしはとっさに自分の罪深いことを考え、ひれ伏して涙を流し、声を出してゆるしを請いました。(略)
池田さんが町から帰ってこられましたので、ことの成り行きを知らせ、御像の前に案内しました。『これ(十字形の傷)は前からあったのではないか』と聞かれましたのでわたしは『マリア像を二ヵ月かかってデッサンしていましたので、御像のすみずみまでよく知っておりますが、以前にはありませんでした』と証言しました。(略)」。
シスター柏木「いったん食堂に戻り、30分か1時間くらいたってから再び聖堂に行き、マリア像の前に跪いてみました。今度は御手の傷がはっきり変化していました。十字形の大きさは前と同じでしたが、単にボールペンのにじみのような感じはなく、肉体に彫られた傷のそれでした。十字形の周囲は人間の肌そっくりで1ミリくらいの指紋のような、皮膚の目さえ浮き彫りになっています。この時、手が生きている、と思いました。(略)
この日、御手は何回も変化しました。小竹さんから『御血が流れました』と知らされ、急いで聖母像を見に行きましたが、血はあたかもその傷口から流れ出たように下方に流れており、まわりにまでにじんでいました。やはり木に血がにじめば、このようなものかと思われるほどでありました」。
シスター石川「以前、その手の部分に十字架の印がなかったことは確かです。私は五年くらいずっと香部屋の係を担当していましたので、マリア像を布でふいた経験もあって、間違いはないのです。(略)」。
シスター池田智恵(会長代理)は、いちばんの年長でもあり、世間での生活も長く、良識ゆたかな人間である。報告を受けて、聖母像の掌を検分したとき、さほど動揺を示さなかった。が、突然両手をふり上げ、ガバとひれ伏しつつ「わが主よ、わが神よ!」と叫んで、かたわらの姉妹たちをおどろかせた。
シスター池田智恵「この傷は、だれかがいたずらに、マジックペンででも描いたのだろう、と思った瞬間、中央の小さい穴から血が噴き出てきた。思わず、あのトマの叫びが口から出た。御復活を疑って主に御傷を示されたあの弟子のように、畏怖の念にうたれて」。
他にも、同様の経験を告白したシスターがいた。

1973年7月12日夕方の聖務日課 シスター小竹ほか2人
夕方の聖務日課に、シスター笹川が聖堂に入ると、聖母像の前で他の二人と祈っていたシスター小竹が、あわただしくさし招いた。
小竹「マリア様の御手から、また血がにじみ出ているのよ。まだ濡れている手のひらをごらんなさい」と示す。
いかにも、今ふき出たばかりらしい鮮血が、十字形の中心から小指のあたりまで流れて止まっている。それを目にしたショックは、前の時にまさるとも劣らぬほどだった。
その“晩の祈り”の最中から、シスター笹川の手の傷も、また痛みだしてきた。

1973年7月13日金曜の夕の聖務 小竹ほかシスター各人
帰院したシスター小竹によって扉が開けられ、たちまち聖母像の掌にまた血の流れが発見された。各人が近くから眺め入ったが、つい今しがた出たようになまなましく、やはり小指の下あたりまで赤い筋が流れてたまっていた。
ふしぎなことに、笹川の手の傷も、普通の日の間は引きつづき痛むわけではなく、木曜の夕方から金曜にかけて、烈しくなるのを通例とした。

1973年7月26日午後2〜3時過ぎ 伊藤司教、シスター石川、池田、小竹
シスター石川「一番印象に残っているのは、7月26日(木曜日)、午後2時過ぎ、祭壇の花を飾りミサの準備をしているときに気がついたのですが、今までになく大きな血のかたまりみたいなもの、黒みがかった赤色が像の手に見られたことです。すぐに台所にいた柏木に知らせ、確かめてもらい、3時頃には司教様をお呼びして見ていただきました」。
笹川「ふり向いた姉妹小竹の眼に、涙があふれている。『またマリア様の御手から血が流れているの。きょうのは、前よりたくさん出てきて、濃くて、ほんとに痛々しいの。あなた、わたしのかわりに祈っていてね』と言いおいて、席をゆずるように出て行かれた。
のぞいて見るまでもなく、おん手のくぼみに、鮮血が、こんどは流れの筋でなく、小さな溜りをつくっているのが、目を打つ。司教のそばに進むどころか、思わずあとずさりして、自分のいつもの座にひれ伏してしまった。こんなにまで、おん血を流されるとは!……」。

1973年7月27日朝 伊藤司教、シスター石川
石川「7月27日(金曜日)の朝、玄関で司教様に、こんなふうに血が出るんですよ、と言って手のひらをお見せしている笹川さんを見ました。偶然の通りがかりだったので、ちらりと脱脂綿ににじんでいる血を見ましたが、それは鮮血でした。7月中、特に木曜日の晩から金曜日にかけて傷が痛み、それもキリで刺されるような痛みで、血が流れていたようです。そのため、食卓の後片づけを彼女は免除されていました」。

1973年9月29日昼食後聖堂 第三者はシスター1人
ロザリオの祈りの最後の第五玄義を唱えかけて、聖母像全体が白く輝いているのに気づく。となりのシスターの袖を引いて注意をうながし、祈りながら二人して眼をこらす。とくに御衣が白く輝き、両手からまぶしい光がさし出ている。
ロザリオの祈りを終えて聖母像に近づき、まず礼拝するシスター笹川に、連れのシスターが「あ、おん手の傷がなくなっている」と指し示した。
      同日晩の祈りのとき シスター数人
聖母像から汗のようなものが流れ始める。笹川に守護の天使から、聖母像の汗をふくように指示があり、脱脂綿を持ってきてシスター5人ほどでおそるおそる御像をぬぐいはじめる。
全身をしとどにぬらす汗という感じで、ことにひたいと首のまわりは、ふいてもふいてもとめどなく、あぶら汗のようなものが滲み出てくる。愕きとともに、心は名状しがたい痛みをおぼえる。
シスター小竹は涙をこぼしながら「マリア様、こんなにお悲しみとお苦しみを与えて申しわけありません。わたしたちの罪とあやまちをおゆるしください。わたしたちを守り助けてください」と言いつつ手を動かす。脱脂綿は、しぼれるほどに濡れていた。
      同日夕食後 シスター数人
聖母像がまた汗びっしょりになっている。あわてて皆で拭く。
シスター大和田が「わたしの綿はちっともぬれない。わたしがふくと汗は出ないようだ……」と悲しげにつぶやくと、とたんに、まるでその不安げな言葉への応答のように、彼女の手の綿は、水に漬けた海綿のように、したたるばかりに濡れたので、びっくりし、つよい感銘を受けたようだった。
そのうちひとりが「この綿からよい匂いがする」と言いだした。嗅ぐと、バラともスミレとも百合ともつかず、それらを合わせたような芳香が感じられ、一同恍惚とした。
シスター大和田「この世の最高の香水も、こんな匂いは出せない!」。まったく天国での香りとはこういうものだろうか、と言い合った。

1973年9月30日聖堂 シスター各人
昨日から引きつづき、聖母像から芳香が発している。
シスターたちは、各自の席で身をつつむごとき香気に魅了される。
その後も、芳香は10月15日まで続く。
特に、小さき花の聖テレジアを記念する3日と、最終日の大聖テレジアを記念する15日には強烈に感じられた。

1973年10月16日早朝の聖堂 シスター各人
昨日までとはうって変わったような、ものすごい悪臭。それも普通の臭気ではなく、これも何か神秘な、この世ばなれした無類の悪臭だった。
笹川「お聖堂(みどう)の戸を開けると同時に襲ってきた臭いは、思わず鼻を蔽ったほどひどいものでした。香部屋が、その源のように、とくべつ臭うので、いそいで調べましたが、原因らしいものは何も見あたりません。それに動物の死臭ともちがう、今まで嗅いだことのない臭さですが、一同がすぐに連想したのは、タクアンの腐った臭いでした。でも漬物小屋は反対の方角にあります。(略)
ロザリオの祈りが終わったとき小竹さんが聖母の御像の前のロウソクを消しに立ち上がりました。とたんに『あっ』という身ぶりで、隣りの池田さんの膝の前を指さしました。こちらは、何か白い米粒のような物を示されて、つまみかけ、その手ざわりに『ワッ、蛆(うじ)!』と言われたようでした。同時にわたしたちも、それぞれ隣りの人の前に、這っている一匹の蛆虫を見つけて、『そら、そこにも』『あなたの前にも』と教え合って、身ぶるいしました。
いったいどこから出て来たものか、手分けして調べましたが、これもふしぎな臭気と同様、原因をつきとめることはできませんでした」。
いちばん臭気の甚だしいのは香部屋で、ここは皆の告解場に使われている。誰からとなく、私たちの罪の臭いだ、と言いだし、頭を垂れてうなずき合った。
タクアンの腐ったような汚臭は、小竹「まさに私たち日本人の罪の臭いだ」と。
蛆虫が出てきたのはこの日一日だけだったが、おぞましい悪臭はこのあと三日間続く。

1974年5月30日 安田貞治神父、シスター各人
安田貞治神父「晩の祈りのため聖堂に入って私も着座したとき、突然姉妹のひとりがふり返って『マリア様のお顔が変わっています』と上ずった声で告げた。はっとして仰ぐと、たしかに御像の顔の部分だけが、全体からきわ立って赤黒く、彩色されたかのように変色している。(略)
この時の変化は(両手の部分をのぞき)多少色がうすれたものの、今も残っている。先年、これを手がけた彫刻家の若狭氏が見に来られた際、木彫のある部分一帯が変色することはあっても、このように特定の個所だけがくっきり彩られたように色を変えることは自然では考えられない、と驚いておられた。また顔の表情など、製作した時とは異なってきている、と不審を洩らされたのであった。
このお顔の表情が、その時により、見る人により、いろいろと変わることは、かねて人々のうわさする通りである。撮られた写真にも、同じ御像か、と思うほどの表情の違いがみとめられるのも、ふしぎの一つである」。

1975年1月4日(初土)午前9時、午後1時、6時半 最初の落涙現象三回 目撃者は伊藤司教、安田神父、シスター、黙想会参加者で、20名
年の初めの黙想会中で、地方からも会員が参加していた。全員が目撃。
笹川「朝食後のお礼拝のあとでした。聖堂のお掃除をしていた海津さんがあわただしく出て来て、『笹川さん、ちょっと』と、廊下にいた私を呼びました。何事かとお聖堂(みどう)について入ると、ものも言わずに聖母像を指さされました。『何?』と海津さんを見れば、顔は土気色で、さしている指先はワナワナとふるえています。私は御像にもう一歩近づいて、お顔を仰いでみて驚きました。両のおん目に水がいっぱいたまっています。あら、水が…と思うとたん、スーッと鼻筋にそって流れ落ちます。眼から水が流れる……それでは涙ではないか、とはじめて気がついて、海津さんに『まあ、マリア様のお涙かしらね』と問いかけましたが、彼女は棒立ちにすくんだまま、唇をふるわせているばかりです。
私も急に腰くだけになりかけ、その場にひれ伏したくなりましたが、これはともかく大変なことだ、まず神父様にお知らせしなくては、と気をとり直して、司祭館へお電話したのでした」。
安田神父「木彫の聖母像の両眼が、きらきらと光り、涙がたまり、あふれ出し、流れ落ちる光景は、まさに泣いているお姿としか見えなかった。あとでだれもが口にしたように『生きている人間が泣いている』感じであった。涙が涙腺のある眼がしらのあたりから湧き出、鼻すじや頬をつたわってしたたり落ちるのも、立ったまま滂沱たる涙を流している人間の場合とまったく同様である。涙のしずくはあごの下に玉のように留まったり、衣の襟にたまったり、さらに帯を越え衣のひだにそって流れ落ちて、足台をぬらしていた」。
伊藤庄治郎司教(1月6日、秋田地区の司祭たちの新年の会合で)「自分は以前に聖母像の手の傷も、そこから流れ出た血も見ているが、今回、眼から流れ出た涙を綿をもって拭ったとき、血の場合とははるかにちがって、その不思議さを感じた。これこそ奇跡ではなかろうか、と思った」。

この日に始まった聖母像の落涙現象は、時をおいてあるいは日を継いでくり返され、1981年の9月15日(聖母の悲しみの記念日)まで延々と101回も続き、目撃者は日本の各地、韓国からの来訪者延べ1842人(次に記す一覧表の数字を足したもの)に及ぶ。
この現象の詳細な記録(日時、回数、目撃者とその数等)が、前記参考文献『日本の奇跡 聖母マリア像の涙』の巻末付録に一覧表にして掲載されている。

安田神父「涙の流れる様相は常に異なっていた。量にしても、ある時はとめどなく流れくだり、ある時は二、三滴したたり落ちる、という具合であった。状況としては、私たち修院在住の者だけの面前で起こることは少なく、外部からの訪問者のある時が多かった。つまり、内輪の者ばかりでなく、客観的に観察をなしうる証人の存在する時に、おもに起こったのである。その時間も限定されず、昼夜を問わず、だれの予測も及ばぬかたちで始まるのであった。必ず発見者が出るわけであるが、それは大人でも子供でも、訪問者でも姉妹でも、だれでもよかったようである。落涙が起こらなかった例外的な時間があったとすれば、それはミサ聖祭の間である。御ミサは姉妹たちの生活のなかで、日々欠くことのできぬ、最も神聖な典礼行為である。そのミサの開始前、あるいは終了後には、二、三度“お涙の現象”があったように記憶する」。

7年間に及ぶ101回の落涙現象については、新聞雑誌出版物やテレビ等の報道によって日本全国に広く知られている。実は本稿の編者も、まだ教会へ行ったこともない若い頃にテレビで聖母像の涙を目にして驚いた一人である。その時に、落涙現象だけでなく聖母像の前で熱心に祈っている人々の姿に「こういう世界があったのかぁ!」と、何かうらやましい手のとどかない世界を見せられたような気持ちになったのを覚えている。

前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』には、落涙現象を実際に目の当たりに見た人々の目撃証言(1976年5月1〜2日)が掲載されている。その中から、描写が客観的なものを三つあげておきたい。
鈴木功氏(首都高速道路公団職員48歳)「私など技術畑出身なので、とかくアタマでものを考えてしまいます。超自然より自然法則を尊ぶんですね。だから一回目の目撃時には、雨のせいではないか、湿気はどうか、といった疑いが頭を横切りました。完全にショックだったのは二度目です。そこにはもう、自然作用の入り込む余地がありませんでしたから」。
松井栄次氏(郵政省電波管理局勤務43歳)「涙が出たという知らせを初めて受けたとき、私もやはり雨露の影響ではないかと考えて、像を目と鼻の先に見据え、そうでないと解ったあと、今度は、誰かがスポイトで演出したのではないかと思いました。ところが二度目の涙は、像の目からジワッとにじんであふれ、私たちの目の前で次から次へと流れたのです。私たちの理解を超越したこの事実に、やはり感動せざるをえませんでした」。
川崎弘氏(明治ゴム化成勤務39歳)「二度目のとき、私は像から30センチメートルの近さで、右目から米粒の涙がキラキラ光って湧き落ちるのを見ました。人為的手法では芸術をもってしても表現出来ない美しさでした。他に人がいなければ像の足元に落ちた涙を自分のロザリオにつけてみたい――そんな思いに駆られました」。

落涙現象によって流れ出た水分は、二度にわたり秋田大学法医学研究室にて成分の精密な検査がなされた。
一度目の検査は、最初の落涙現象(1975年1月4日)から日を経ずして行なわれ、保存されていた聖母像の右掌の傷から流れた“血”を拭きとったガーゼ、その後の“汗”をふいた脱脂綿、1月4日の“涙”をぬぐった脱脂綿が、同時に検査のために提出された。検査対象がどこから採られたかは明かさずに純客観的な調査を依頼。結果は、ガーゼに付着している血は人血でB型、脱脂綿に付着している涙のヒト体液はAB型と判定。鑑定者は勾坂馨。
二度目の検査は、1981年8月22日に依頼。前回、鑑定物件に他の人間が触れたため多少の汚れが付着(A型B型)していたこと。また、血液と涙に差異があったのに、“聖母の血液型はB型”と断定して報道されてしまったため。細心の注意をはらい、用意した真新しい脱脂綿をピンセットで大豆大にまるめ、聖母像のアゴの下にたまっていた涙のしずくを充分に沁みこませ、新しいビニール袋に納めた。ただちに同日午後、秋田大学へ持参。医学部生化学第一教室の奥原英二教授を通じて、岐阜大学医学部法医学教室の勾坂馨教授に鑑定を願う。結果は、
「鑑定 一、検体にはヒト体液が付着しているものと考えられ、その血液型はO型と判定された。 昭和五十六年十一月三十日 岐阜大学医学部法医学教室 鑑定人 勾坂馨 印」。この時の克明な検査記録の文書コピーが、同じく『聖母マリア像の涙』に巻末付録(前出)として掲載されています。

この巻末付録には、韓国で1981年8月4日、15日、12月9日の3回「秋田の聖母」の出現を受けて、脳腫瘍の奇跡的な治癒(教会公認)の恵みを受けたテレジア・千善鎬さんへのインタビュー記事も掲載されています。
それによりますと、当時、韓国のカトリック教会では、103名の殉教者が福者から聖人の位にあげられるための列聖運動が盛んで、いたるところで不治の病人の奇跡的治癒が願われていたそうです。テレジア・千の姉たちは、韓国の聖人ができるためにも、103名の殉教者の功徳によって奇跡的治癒の恵みが与えられるようにと、秋田の聖母マリアの取り次ぎを願って、病人の枕元に秋田の聖母像の涙の写真を飾り、神に切なる祈りを捧げたのです。知人友人を通じてあらゆる方面に呼びかけ、熱心に祈るグループが形成されました。身近な人々は断食をして、病人を囲んで祈ること40日間に及んだそうです。出現と奇跡的治癒はその結果といいます。
1983年3月から4月にかけて、ソウルのカトリック教会では103人の福者を聖人の位にあげるための委員会が組織されました。そして、この秋田の聖母マリアによって起こった奇跡を認め、カルジナルをはじめ、この委員会の名のもとにローマに申請書を送り、バチカン当局に受理されたのです。1984年5月に、韓国の103人の殉教者たちは列聖されました。

この項の終わりに、当時の教会からの批判の矢面に立ちながら、事実を伝えることこそが報道の義務という信念を最後まで貫いた勇気ある編集長の目撃証言を載せておきたいと思います。

1976年5月13日 山内夫妻、安田神父、シスターたち、秋田教会の婦人たち、35人
山内継祐氏(「カトリックグラフ」編集長)による証言。
久しぶりに見るマリア像のアゴの部分が、白く塩を吹いている。5月1日と2日に涙が流れたとき拭かずにおいたため、涙が乾いたあとアゴや足元に白く塩を吹いた状態で残ったのだという。
マリア像の顔の部分が真黒く見えた。修道女から以前に、ときによって顔色が変わると聞いてはいたが、こうも黒光りする顔色を過去の取材中見たことはなかった。あの話は本当だったのかな、と私は思った。それにしても、いま目前にある像の顔色は黒すぎる。それに、テカテカと光りすぎているのではないか。私は像に近寄り、油を塗り込めるなどの細工がほどこされていないことを確認した上で、修道院応接間に引き返した。そこに保存してある「カトリックグラフ」のバック・ナンバーからこの像の写真を見つけて、現状と比較するためである。
写真はどれも、いま見た像ほどには黒くなく、光ってもいない。当時の撮影条件を思い出しながら比較したのだが、この日の像の黒光りするさまは、私にとって異常だった。
(4ページほど略。このあと、昼の祈りのとき山内氏は自身が編集する「カトリックグラフ」誌の窮状を訴え、もし聖母像からの落涙現象が神からの真実ならば、自分の目の前で聖母像の涙を見せてほしい、そうすれば堂々と胸を張って書き続けることができるから、と祈る。昼食後、山内夫妻は再び聖堂へ行く)。
聖堂へ入り、祭壇右奥のマリア像に目をやった私は「あれっ?」と声を上げた。像が白いのである。顔の部分だけでなく、全体に白々としている。顔の白さは、午前中の黒さが印象的だっただけに、きわだっている。
「オーイ」と妻に声をかけて促し、私は祭壇へ一気に歩み寄った。白い像の胸元に一点の黒いシミ。トランプのスペード印を逆さまにした形のそのシミに、私は見覚えがあった。昨年3月に涙が流れたとき秋田市内の写真家が撮ったカラー写真に写った涙の跡が、確か同じ形であったはずだ。
私はマリア像に近づき、像の顔から30センチ、いや10センチくらいの位置で観察しようとした。その私の鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。水滴の止まった部分から像のアゴにかけて水跡は続き、アゴ先にも大きな水滴。さらに喉の部分が濡れ、そして胸元のくぼみにたまった水が服の上端でせき止められていた。逆スペード型の黒いにじみは、せきを切って流れ出た水の浸み出たあとであった。
それだけのことを、私は一瞬のうちに見たように思う。一歩退いて像を見たまま、「出てるぞ!」と私はいった。「恐い」と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。
初めに「本当に、涙なのだろうか」と考えた。祭壇脇の香部屋に足を運び、誰もいないこと、その部屋の手洗い用水道が使われた形跡のないことを、まず確認した。それから像の真上の天井に雨漏りの跡のないことを確認した。デコラ張りの祭壇脚部や聖堂のグラスなど湿気によって水滴のつきそうな部分を目で追い、その可能性を探した。それらの作業には1分もかからなかったろう。像は右目をうるませ、涙を流し、胸元にたまった涙は服の部分に浸み出たままである。
(1ページ半ほど略。山内夫妻は、聖母像の前で祈り始める。神がすぐそばにおられることを実感しながら、生まれて初めて無心に祈る。それから、司祭や修道女、巡礼者たちに涙のことを知らせに走る。聖堂へ戻ってみると)。
マリア像は、依然として白かった。誰が促すともなくロザリオの祈りが始まり、それはすぐに全員の祈りとなった。私は聖堂脇に置いたカメラを手にして安田師に撮影許可を動作で求めた。師は黙ってうなずかれた。フィルムをわずか2枚しか残さなかったことを後悔しながら、「ブレてくれるなよ」と祈るような気持ちでシャターを押す。
ロザリオの祈りが続いた。不覚な話だが、ロザリオを持参しなかった私は、手の指をもう片方の手で握りながらそれに加わった。
祈りながら私はマリア像を、穴のあくほど見つめた。背負った十字架から指先まで白い像の、とりわけて白い顔。被ったベールや服の輪郭が輝くように見えるのは錯覚なのだろうか。マリア像の表情からあのきびしさがすっかり消えている。私は、ふと、この顔はキリストなのではないか、と思った。マリアの姿をとってはいるが、キリスト像なのではないか――
それまで考えてもみなかった思いに、私はしばらくの間とらわれていた。
ロザリオの祈りが1環の終わりに近づいたとき、像胸元のにじみがすうっと消えていった。「あ、涙が消えてゆく、消えてゆく……」と思っている間の、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは頬の涙やアゴの涙は確認出来ず、胸元のにじみの変化だけが鮮かに目に映った。
すべてが終わったあと、残された時間を妻と二人でさらに聖堂で過ごした。私は「これが神の答えだな」と確信していた。苦しくても辛くても、グラフ刊行を続けよ、という神の意志を、私は感じ取った。むろんこの日の出来事は、神による他の意志表示であったかもしれない。しかし私には、確信だけが残った。懸命に祈れば神の応えがあるものだ。そんな、いまさらながらの祈りの意義を私は思い知らされた。
私たちは予定された汽車に乗って秋田を離れた。ガラ空きの急行だったが、私も妻も声一つ出ない。夫婦喧嘩のあとの気まずい沈黙とはまったく違う、豊かに満たされた沈黙を、私たちは味わっていた。たまに口を開くと、それは自分たちの生涯に二度とないであろう奇蹟の話となり、それを語りあうたびに二人とも、にじむ涙を押さえ切れなかった。
「見たままを言っても、誰も信じてくれないでしょうね」と妻はいい、
「だって、現に見た私でさえ、いまだに信じられない気持ちだもの」と付け加えた。
「マリア様は、『見たことを伝えなさい』って……」
「やるしかないだろう。でも、狂信者扱いされるだろうな」と私は答えた。
「しかたがないよ、見ちゃったんだもの」という私のつぶやきに、妻は黙ってうなづく。
いまでも、私は友人にあの出来事を話すたびに涙が出る。それを感情の昂ぶりといわれるならそれでもよい。ありていにいえば自分では、うれしさと感謝の念のない混じった涙ではないかと思っている。
(山内継祐氏の証言は、前記参考文献『極みなく美しき声の告げ』より抜粋)。
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