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アマゾンの大逆流・ポロロッカ
旅行先 : アマゾン河口にある島
 時期 : 2005.5
アマゾンの大逆流・ポロロッカを見に、ブラジルまで行ってきました。ポロロッカそのものは、期待したほどではありませんでしたが、河口の島の牧場に滞在しての、ちょっとワイルドな体験は、「ブラジル移民」を夢見たことのある僕にとって、若き日が甦ってきたように思われました。また、ベレンやサンパウロで、ブラジルに暮らす日系の人々の活躍を垣間見ることが出来たのも、今回の旅の大きな収穫でした。これはそんな旅日記です。

1)ベレンまで
5月2日19時発のヴァリグ・ブラジル航空サンパウロ行きは、ほぼ満席。隣の席には、日系二世の青年。ブラジルから出稼ぎに来て、もう17年。ベレンに一人で住む母親の見舞いに行くのだという。話し好きの青年で、サンパウロまでのほぼ24時間、目の覚めている時間の殆どは、彼がしゃべっていた。親しく話を聞いて貰えるのが嬉しいらしい。彼の身の上話は、日系ブラジル人のひとつのドラマ、興味が深い。
経由地のロス・アンジェルスでは、隔離されたトランジット・ルームで休憩するだけなのに、その入口で、全員の指紋と写真を撮る。このまったく無駄と思える作業のために、長い行列が出来、1時間以上も立ちんぼ。そして、トランジット・ルームに入った途端に、ボーディングの案内が出る。顔を洗う暇さえない。ビザの必要の無い日本人は、まだ怒りが少ないが、ブラジル国籍の青年は、このトランジットのために、2万円を支払って、ビザを取らされたという。「アメリカの横暴である」と、彼は怒りを隠せない。(付記:この件が原因で、ヴァリグ航空の日本発ロスアンジェルス経由サンパウロ行きは、2005年秋に廃止になった。)
5月3日朝、サンパウロ着。此処で、ベレン行きの飛行機に乗り換える。日本からサンパウロまで南下して、今度はベレンまで北上するのは、ずいぶん遠回りの旅だが、ブラジル航空のハブはサンパウロなのだから仕方がない。それにしてもサンパウロからベレンまでほぼ5時間と遠い。午後3時頃、ベレンのホテル着。

2)ベレンにて
ベイラリオ・ホテルは、アマゾン川の面した小さなホテル。夕食までは、時差調整のための休憩時間なので、プールに出かける。飛行機で固まった筋肉をほぐすには、泳ぐのが一番良い。ひと泳ぎして、誰もいないプールで、仰向きに浮きながら空を眺めると、コンドルたちが高く舞っている。彼等を眺めていると、自分も空に舞っているように思えてくる。やがてバケツの水をぶちまけたような、激しいスコールがやってきたので、部屋に戻る。このスコールは、乾期でも、ほぼ毎日やってくるらしい。でもすぐに止む。
夕食に出かける途中、スーパー・ヤマダに立ち寄る。ベレンで最大のスーパーで、山田さんは、日系人の成功者の一人だとか。ビールのつまみを捜していたら、栗ほどの大きさのナッツを見つけた。ブラジリアン・ナッツで、油っぽくて、3粒も食べたら腹いっぱいになりそうだ。カシュウ・ナッツもブラジルの特産品とか。缶詰の表の絵で、このナッツが果物のお尻についている事をはじめて知る。
東京のお台場を参考にして再開発された、ベレン港の旧倉庫地帯・ドック・ステイションは、南欧風の雰囲気も加味された、なかなかしゃれた場所。その中のレストラン「波止場」で、ベレンの泥蟹「カランゲージョ」の爪を、ちょっと舌のしびれる野菜「ジャンブー」であえた料理で乾杯。とにかく旨い。一匹で一つしか取れない爪を、何匹分食べたのだろうか。メイン料理のアマゾン鯰や地鶏がでる前に、ほぼ満腹状態。今回のツアーの参加者は、男女それぞれ2人の合計4人で、旅のベテランばかり。大正14年生れの男性の次は、昭和10年と11年生れの女性、それに12年生れの小生。アマゾン・トラベル・サービスの社長であり、今回の旅の案内役でもある北島さんは、昭和14年生まれとあって、ほぼ同年代。話が弾んで、アマゾンの地ビール・セルピーニャの小瓶が、次々に空になった。ビール瓶をワインクーラーで冷やしながら、サービスしてくれるのも、赤道直下のベレンらしい。
5月4日朝、アマゾン川に張り出した食堂で、川風を受けながらの朝食は、ビュフェ・スタイル。果物が豊富で、特にパパイヤが甘くておいしい。ハムやチーズの種類も多く、思わず食べ過ぎてしまう。季節ではなかったので味わえなかったが、ベレンの街路樹はマンゴー。熟した実は、誰が採って食べてもいいのだという。
ナザレの大聖堂は、ブラジル人の信仰のメッカ。お祭りの日には、人口50万のベレンに、200万人以上の人が集まるという。その大聖堂の前に、日系病院がある。ベレンに入植した日本人が、自分達のために建てた診療所が発展して病院になり、今では患者の9割がブラジル人だという。医師は全員が日系で、日本での研修も受けており、日本からの援助で医療設備も整っているので、ベレンではもっとも信頼されている病院だという。因みに、機内の日系二世の青年の話によると、ベレンでの生活費は日本の半分以下。これから、老後の長期滞在を考える向きには、ちょっと遠いが、ベレンも考えて見る価値がありそうである。日本語で診断が受けられる病院の存在は、長期滞在には欠かせない。かなり現地語の達者な人でも、しくしく痛むのか、きりきり痛むのか、そのニュアンスを正確に伝えることは難しい。また、かなり大きな日本人社会があり、日本料理の食材も豊富なのも、長期滞在には好条件である。
ベレン郊外にある群馬の森は、北ブラジル群馬県人会が、地球環境と熱帯雨林保護を目的として設立した、農林試験場。約400ヘクタールの保護原生林は、アマゾンの原生林の生態を観察するには絶好の場所。入口で、イッペーの苗木を記念植樹したあと、1時間ほどの原生林トレッキング〈写真2〉。温度は日陰で30度、湿度は90%以上、汗が吹き出る。季節外れとあって、我々は出会えなかったが、蘭や蝶の宝庫らしい。約100ヘクタールの再生林では、胡椒とマホガニーの混合植林実験。焼き畑農業で荒れた土地を、持続的に利用しながら、アマゾンの森を復活させようという試みである。また、世界最大の淡水魚・ピラルク〈写真3〉の養殖実験池もある。掌ほどもある生きた魚を池に放り込むと、投げ入れられた魚が泳ぎだす間もなく、ピラルクが水面に飛び上がるようにして現れ、魚を一呑みにして、水中に消える。50キロ近い怪魚なのに、動きは鋭い。一昨年、マナウスで見たピラルクは、水底で眠る太った豚のイメージがあったが、今回のピラルクは、飢えた鰐のように思われた。どちらも本当の姿であろう。この翌日、サンルイス牧場の夕食にはピラルク料理が出た。白身のカジキといった味で、川魚特有の泥臭さはない。ブラジルの高級魚だという。
ベレンの人々の避暑地、モスケイロ島のレストラン「ぱらいそ(天国)」で昼食。砂浜と静かに打ち寄せる波は、一見、海辺の景色なのだが、濁った水は間違いなくアマゾン川のもの。ベレンの川海老をつまみに、ビールで乾杯。群馬の森で汗を流しただけに、喉にしみわたる。「海老がたくさん獲れる所には、石油が出る」という伝説があるが、アマゾン・デルタの地下には、大量の天然ガスの埋蔵が確認されているらしい。昼食も終わり近くになった頃、一転にわかに掻き曇り、突風と一緒にスコールがやってきた〈写真4〉。
スコールの通り過ぎるのを待って、ベレンに戻り、エミリオ・ゴルェジ博物館に立ち寄る。夕食は日伯会館の隣のレストラン「博多」で刺身定食。ブラジル近海ものだという鱸(すずき)の刺身が旨い。ブラジルの食事は、朝と昼にたくさん食べて、昼寝をし、夜は簡単にというスタイルだとか。

3)サンルイス牧場−その1
5月5日、朝5時半。まだ暗いうちに朝食ブッフェ。果物でおなかを一杯にして、6時15分にホテルを出発、空港に向かう。でも着いたのは、ベレンのアエロ・タクシー乗り場。バスターミナルのような建物の前には、十数台のセスナ機が並んでいた。我々は、そのうちの2台に分乗、サンルイス牧場を目指す。前のセスナには、北島さんと女性二人、それに荷物。後ろのセスナには、北島さんの友人の吉丸さんと男性二人に添乗員の明日香ちゃん。これで重量のバランスが良いらしい。ベレンの町を後に、セスナはパラ川(アマゾン川の分流)を越え、九州よりも大きいという川中島・マラジョー島の上を飛ぶ。我々のために、低空飛行をしてくれているので、湿地帯で草を食む水牛の姿や、飛び立つ白い鳥の姿も良く見える〈写真5〉。島の半分は森、半分は湿地帯である。水路に沿って、家が点在する。此処の交通手段は、小船かセスナ。道路は見当たらない。我々の目的地は、このマラジョー島の北にあるカビアナ島。ベレンから約250キロ、セスナで約1時間の距離である。天候の安定している朝に飛んだおかげで、朝7時過ぎに、セスナは、サンルイス牧場の草むらに、泥水を跳ね上げながら、無事着陸した。滑走路の脇には、赤道を示す公式測量点が、何気なく建てられていた〈写真11〉。
牧場での部屋割りは難問のように思われた。本館から100メートルほど離れた池に、突き出して建てられた高床式のロッジ〈写真7〉は二つしかない。誰もがそのロッジに泊まりたいだろうと思った。でも女性二人が、離れは寂しすぎるからという理由で、本館を選んでくれたので、男性二人が、一部屋づつロッジを占拠することが出来た。ラッキーである。
部屋割りのあとは、今日2度目の朝食。我々が「大王」と名付けた、牧場主のマルセロさんは、カメハメハ大王を髣髴させる巨体で、40歳くらいだろうか。日頃はベレンに住んでいるが、今日の準備のために、先に来ていたのだという。ここの朝食は、すべてが自家製。大王自らが、自分の作った窯でパンを焼き、燻製ハムを作る。水牛や豚の腿肉の大きな燻製を、シュラスコを削るように切ってくれる。水牛の乳で作ったチーズも、モッツアラレ・チーズのようにあっさりしていて、なかなかいける。僕が気に入ったのは、ピトゥンバという杏に似た果物で作ったジャム。チーズやパンにつけると、酸味と甘みの調和したジャムの味が引き立つ。出されたジュースは、時計草、グアバ、ピトゥンバ、椰子といった牧場で採れた果物。大王はこれに砂糖を入れて飲む。
朝食を終えて、牧場内の湿地帯を、水牛とロバに乗って散策〈写真1〉。水牛は、背中も広く、安定感があって、乗り心地が良いが、ロバの狭い背中は、よく揺れる。小さな水路を跳び越す時など、僕を乗せた小さなロバが、滑って転びはしないかと心配する。でも約1時間の散歩は、助けを借りることなく、一人で手綱を操り、無事帰着。
昼食でビールを飲んだ後は、ロッジのベランダにハンモックを取り付けて、シエスタ(昼寝)。アマゾンの川風が、池の上を渡って冷やされ、ハンモックを揺らす(写真8)。朝が早かったせいもあって、寝つきがいい。
夕方のトレッキングは、昨年9月の大ポロロッカで、被害をこうむったというジャングルの散歩。長靴に杖といういでたちで出発。ポロロッカの運び込んだ大量の泥で覆われた小道には、所々に足を取られる泥沼がある。それを杖で確認しながら歩くのだが、間違って足を踏み入れると、ゆっくりと沈み込んでゆき、足が抜けなくなる。おまけに、長靴の底が、泥と密着してしまい、無理に抜こうとすると、足だけが抜けてしまう。この泥沼を上手に歩くには、裸足で、右足を下ろしたら、その足が沈み込む前に、左足を出すことである。立ち止まってはいけない。かつてはきれいな砂浜であったという場所には、大きな流木が流れ込んでいて、インドネシア地震の津波の後の風景を思い起こさせた〈写真12〉。牧場の船着場も、この時に流されたのだという。何処か遠くで、お祭りでもやっていそうな音がする。吠え猿たちの声が交じり合って、このような木霊になっているのだという。
夕食の後は、夜のポロロッカ見物。我々の為に応急修理したポロロッカ観測台は、先ほど完成したばかり〈写真14〉。削ったばかりの木の香りが良い。その先端で、ビールを飲みながら、ポロロッカの来るのを待つ。今日は新月、星空の下、真っ暗な川面を見ながら、話が弾む。こんな夜には、「イルカの王子様が出てきて、女達を孕ませる」のだという。これは、女達にとって、都合の良い伝説だが、時には、生まれた子供を、川の中の「イルカの王子様」に、送り返す事もあったらしい。男達の伝説は、黒い髪の鰐さんで、彼女等は財布を丸ごと呑み込む。ピンク・イルカのお姫様は出ませんかと尋ねたら、伝説のイルカは全部が男性ですという答え。ピンク・イルカはオカマちゃんという話になってしまった。
ロッジの部屋は西側がシャワーとトイレでふさがっているが、南北と東から風が通るように作られている。窓も扉も全部開け放して網戸にし、ベッドの上に蚊帳を吊って、その中でパンツ一丁の裸で寝る〈写真9〉。赤道直下、扇風機がなくても、自然の風のおかげで、思ったより寝心地がいい。自家発電機が止まるのは、夜の11時。池の上に突き出たロッジの、静まり返った暗闇に一人、眠る以外にすることはない。
5月6日明け方。窓が鳴って雨が吹き込み、肌寒さを感じて、目を覚ました。パジャマを着て、窓を閉めたものの、寝付けない。スコールが去ると夜明け。ベランダに出て、池に映る、朝焼けの風景の写真を撮る。受験生の頃、徹夜明けで、木曾川の堤防を散歩して、朝焼けを眺めたことを思い出した。池の中で眠っていた水牛が、起きだして、水音を立てながら、ゆっくりと陸に上がってくる。どこからか馬達も現れて、群れを作る。アマゾン・デルタの朝の静けさを、鳥達が破る。

4)アマゾンの大逆流『ポロロッカ』
朝食を終えてすぐ、長靴を履き、セスナの滑走路を横切って、昨夜と同じ観測台に行く〈写真13〉。昨夜は何も見えなかったが、この船着場付近は遠浅で、かなり先のほうでも水鳥が散歩している。当初は船着場として作られたのだが、昨年の大ポロロッカがもってきた泥で埋まってしまって、とても船を着けられる場所ではない。セスナ以外にこの島から脱出の道はなさそうである。
正面に見えるのは、メシアナ島。右手上流に見えるのが、マラジョー島。二つの島は河口デルタの湿地帯とあって、島影は低い。左手下流は大西洋である。今日は好い天気で、風もない。遠浅の川面は、まったく静かな湖面のようで、空に浮かんだ雲が、メシアナ島の低い島影をはさんで、逆さ不二よろしく、川面に映る〈写真16〉。
左手の水平線上に、キラキラと光る線が現れると、やがて波の音が聞こえてきた。ポロロッカである。こちらへ真っ直ぐに向かってくる。しかし、その光る線の下に、茶褐色の波が見えるようになると、その先端部は流線型になり、メシアナ島の岸に沿うように進む。こちらから見ていると、褐色の舌が伸びて、雲が映っている鏡水面を呑み込んでゆくように見える〈写真17〉。舌の先端が、メシアナ島先端と重なる頃、其の舌の裾野が、やっとこちらの岸に到着した。波の高さは低いが、瞬く間に水位が1メートルほど上がる。我々の観測点の前には、昨年の大ポロロッカで流された船着場の杭が、そのまま残されているので、水位の変化を見るには好都合である(写真18)。波はこちらの岸にぶつかると、反射波となって、戻ってゆく。ポロロッカの巻き上げた泥で、雲の映っていた鏡水面は、跡形もなく消えた。
第一波のポロロッカの後には、第二波がやってきた。キラキラと光る線は同じだが、今度は、波も大きく、上流への流れを伴っている〈写真19〉。流速は15−20キロくらい、自転車よりも早そうである。水位はさらに50センチほど上った〈写真20−21〉。5‐6分間、上流への流れが続いたであろうか、流れは徐々に速度を落として止まった。なぎが訪れた。波もない静かな泥海が眼前に広がる。〈写真22〉
第三波のポロロッカは、上流のマラジョー島の方からやってきた〈写真23〉。これが一番大きい。地形から判断すると、この第三波は、マラジョー島とメシアナ島の間の水路を遡ってきたポロロッカが、カビアナ島とメシアナ島の間の水路のポロロッカ(我々の見た第一波や第二波)とぶつかり、合流してマラジョー島に跳ね返って、こちらに戻ってきたら物らしい。古い船着場の杭の上に残っていた横板が、流れに洗われている。我々の観測台は、古い船着場よりも1メートルほど高く作られているので、足元が洗われることはない。しかし、昨年の秋に、古い船着場でポロロッカを見ていたら、今頃はピラニアの餌になっていたかもしれない。昨年のポロロッカの泥で、流れが変わり、凄みのあるポロロッカを見ることは出来なかったのは残念だが、アマゾンで溺れるより、良かったかもしれない。
潮の満ち干きによって、海水が河川に流れ込むのは、何も珍しいことではない。ただ、その逆流が、津波のように、目に見えるような形で現れるのは、特殊な地形による。大逆流が見られる中国の銭塘江やアマゾンの河口付近は遠浅で、両岸がきれいな三角形に開いている。即ち、広い海からやってきた潮汐波は、徐々に狭いところに入ることで、エネルギーが面から高さ変換され、高い波になる。その波が緩やかな流れの川を遡る。干満の差の大きな大潮の時に良く見られる現象である。アマゾンの大逆流・ポロロッカ(またはボア)は、手持ちの資料によると、時速15−20キロ、波の高さは、数メートルに達することもあるとか。この大逆流は河口から400キロ近くの上流にまで到達するという。実際に今回見たのは、1メートルほどの高さの波が、自転車並みの速度で逆流するもの。期待した数メートルの波には程遠く、ちょっとガッカリ。しかし、数分間で川の水位は2メートルほど上がったのには、驚きを禁じえない。
ツアーの案内によると、翌日は舟でポラロッカを見に行くことになっていたが、船着場が使えないとあって、結局、昨日と同じ場所でポラロッカを眺めることになった。ツアーとしては、最低の選択である。大手の旅行会社なら、違約金も請求できるが、小さな会社の、テスト・プログラムではそれも難しい。帰国後、テレビでレンソイルという、白砂の砂丘が近くにあることを知って、臍をかんだ。

5)サンルイス牧場−その2
5月6日。ポロロッカを見た後は、本館のサロンで、農場の片隅にある小学校の生徒達による民族舞踊・カリンボの披露。小学生といっても、半分くらいは牧場の従業員。なじみの顔もいる。まだ幼稚園くらいの小さな子供もいるので、平均年齢は18歳位であろうか。ポルトガル風の民族衣装で着飾っての晴れ舞台。バイヨンとパソドプレの混じったようなリズムで、男女ひと組になって踊るフォークダンスは、どことなくポルトガルのにおいがする。最後のジルバでは、最年長の酒井さんと小生も、小学生を相手に踊る。
例によって、昼食の後はシエスタ。夕方になって、牧場の中の池で、岸から釣り糸を垂れる。でも、どうやら、魚たちはまだ昼寝らしい。仕方がないので、ロッジに繋いであるボートで池に出る。この池には、ピラルクが数匹飼ってあるとか。夕食は、昨夜に続いてピラルクの料理。昨晩はフライだが、今晩はジャガイモと一緒のオーブン焼き。我々のために、池のピラルクが一匹犠牲になったらしい。
5月7日。朝のポロロッカ見物。船着場の傍には、水牛の死体が流れ着いていた。ポロロッカの先端は波が巻いているので、破壊力がある。昨夜の高さ1メートルほどの波でも、水牛が溺れ死ぬ。禿鷹達が盛んに突付いているが、皮が硬くて破れない。この水牛の死体、ポロロッカの第一波で、あっという間に流されてしまった。小さいように見えても、ポロロッカの威力を実感させられた。
ポロロッカの流れを利用して、三人の祈祷師が隣の島からやってきた〈写真24〉。日本では、僧侶が各家庭を訪れて、訳のわからない漢語で経を読むが、この祈祷師達も、わけのわからないラテン語で、お祈りを捧げる。牧場の従業員達は、神妙な顔をして十字を切る。
シエスタの後は、牧場の従業員とその子供達による、ロデオや競馬。大人達が、牛にロープを掛けて横倒しに倒すと、数人の子供たちが駆け寄って、その中の一人を牛に跨らせる。騎手になった子供が、片手で牛の尻尾を掴むと、牛を立ち上がらせ、ロープをはずす。牛は子供を振り落とそうと、ぬかるみの中へ懸命に駆け出すが、皆なかなか落ちない。やがて、みんな泥んこになって、池に飛び込む。競馬では、親馬について、子馬も走る。我々観客がいるおかげで、従業員達も楽しそうである。此処の従業員達は、親子三代というのが多いとか。島を離れたことのない従業員も多いという。
5月8日。昨夜から降り出した雨は、明け方にやんだが、セスナの滑走路は、ぬかるんでいる。今日帰れるかどうか心配したが、1機のセスナが、飛んでくれることになった。ガソリンをマラジョー本島で抜いて、機体を軽くしてから、ぬかるみの滑走路に着陸。我々はセスナの入口で長靴を脱ぎ、機上の人となった。ピストン輸送の後、マラジョー本島で2機に分乗、ベレンに戻る〈写真27〉。
今日は母の日とあって、レストラン博多は、ブラジル人の行列が出来るほど、込み合っていた。北島さんによると、日本食はブームで、箸を上手に使えるのは、「ナウいこと」だという。でも、彼らの注文するのは、鉄板焼き。まだ刺身を食べる人は少ないらしい。
夕刻サンパウロに飛び、日本人街にある「日系パレスホテル」泊。

6)サンパウロ
5月9日、久しぶりにお風呂に入り、エアコンの利いた部屋で寝る。朝食のブッフェは果物が一杯。メロン、パパヤ、スイカ、パイナップル、バナナ、どれをとっても、日本の果物よりずっと甘くておいしい。町の屋台では富有柿やふじ林檎、いろいろな蜜柑も売っている。日本人移民が品種改良した成果だという。第二次世界大戦では、ヨーロッパに対する食料供給国として、ブラジルに農業ブームが起こった。そのブームを支えたのが、日本人移民だという。農業者としての日本人の評価は高い。因みに、日本で消費されるオレンジ・ジュースの7割はブラジルが原産とか。カリフォルニア・オレンジの会社が、日本から受注して、ブラジルに出荷依頼をするのだという。
ブラジルのインディオ達は、自然の中で生きる人々。ポルトガル人に脅かされても、殺されても、仕事はしなかったという。そこで仕方なく、黒人奴隷をつれてきて、働かせたのだとか。サンパウロの日本人街は、昔の黒人奴隷の死刑場。白人達が気持ち悪がって住まなかった場所に、「御祓い」をして住み始めたのだという。奴隷制度に関係のない日本人には、祟りもなく、今ではサンパウロの名所になっている。提灯を模した街灯や、赤い鳥居、地方都市の駅前商店街を思わせるたたずまいには、床屋もあれば、スーパーもある。日本語も通じるし、異邦人という感覚はない。でも、日本風の看板を出していても、半分くらいは中国人や韓国人のお店だという。ガイドの立花さんは、戦後、こちらへ花嫁移民をしてきた人。ブラジル人と日本人の食文化に対する考察が面白い。
日本人街の散策を終えて昼食。午後はサンパウロ市の中心街と、サンパウロ大学の構内を見学。ビル街には、日本企業の進出も目立つ。
夕食は、シュラスコ専門店の「ノビロ・デ・パラタ」。このお店は、シュラスコの「わんこそば」。焼きたての串から、要らないと言うまで、次々と肉を切り取ってくれる。冷めたら、別の皿に残して、新しい温かい肉を貰う。冷めた肉は豚の餌だという。いかにもブラジルらしい話である。駱駝のような瘤のある「瘤牛」の瘤は、エイの鰭のように、ゼラチン質と肉が、混じりあってなかなか美味しい。因みに、コブウシはインドとブラジルにしかいないとか。ブラジルでしか味わえない珍味だという。乳牛の乳房も食べたが、これは美味くない。
満腹で、飛行機に乗り、その翌々日、成田に帰着。
旅行写真
水牛に乗る
水牛に乗る

No.1
旅人の木の下で
旅人の木の下で

No.2
ピラルク
ピラルク

No.3
スコールが来る
スコールが来る

No.4
水牛の居る湿地帯
水牛の居る湿地帯

No.5
牧場に着陸したセスナ...
牧場に着陸したセスナ...

No.6
高床式のロッジ
高床式のロッジ

No.7
ロッジのハンモック
ロッジのハンモック

No.8
ロッジのベッド
ロッジのベッド

No.9
ロッジのデコレーショ...
ロッジのデコレーショ...

No.10
赤道の公式測量点
赤道の公式測量点

No.11
ポロロッカの爪跡
ポロロッカの爪跡

No.12
ポロロッカ観測台
ポロロッカ観測台

No.13
ポロロッカ観測台(2...
ポロロッカ観測台(2...

No.14
ポロロッカの来る前
ポロロッカの来る前

No.15
ポロロッカの来る前(...
ポロロッカの来る前(...

No.16
ポロロッカ・第一波。...
ポロロッカ・第一波。...

No.17
ポロロッカ・第一波(...
ポロロッカ・第一波(...

No.18
ポロロッカ・第二波
ポロロッカ・第二波

No.19
ポロロッカ・第二波(...
ポロロッカ・第二波(...

No.20
ポロロッカ・第二波(...
ポロロッカ・第二波(...

No.21
ポロロッカの凪
ポロロッカの凪

No.22
ポロロッカ・第三波
ポロロッカ・第三波

No.23
祈祷師が来た
祈祷師が来た

No.24
祈祷師が帰る
祈祷師が帰る

No.25
メインロビーにて
メインロビーにて

No.26
空のタクシー
空のタクシー

No.27