アマゾンの大逆流・ポロロッカ |
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アマゾンの大逆流・ポロロッカを見に、ブラジルまで行ってきました。ポロロッカそのものは、期待したほどではありませんでしたが、河口の島の牧場に滞在しての、ちょっとワイルドな体験は、「ブラジル移民」を夢見たことのある僕にとって、若き日が甦ってきたように思われました。また、ベレンやサンパウロで、ブラジルに暮らす日系の人々の活躍を垣間見ることが出来たのも、今回の旅の大きな収穫でした。これはそんな旅日記です。 1)ベレンまで 5月2日19時発のヴァリグ・ブラジル航空サンパウロ行きは、ほぼ満席。隣の席には、日系二世の青年。ブラジルから出稼ぎに来て、もう17年。ベレンに一人で住む母親の見舞いに行くのだという。話し好きの青年で、サンパウロまでのほぼ24時間、目の覚めている時間の殆どは、彼がしゃべっていた。親しく話を聞いて貰えるのが嬉しいらしい。彼の身の上話は、日系ブラジル人のひとつのドラマ、興味が深い。 経由地のロス・アンジェルスでは、隔離されたトランジット・ルームで休憩するだけなのに、その入口で、全員の指紋と写真を撮る。このまったく無駄と思える作業のために、長い行列が出来、1時間以上も立ちんぼ。そして、トランジット・ルームに入った途端に、ボーディングの案内が出る。顔を洗う暇さえない。ビザの必要の無い日本人は、まだ怒りが少ないが、ブラジル国籍の青年は、このトランジットのために、2万円を支払って、ビザを取らされたという。「アメリカの横暴である」と、彼は怒りを隠せない。(付記:この件が原因で、ヴァリグ航空の日本発ロスアンジェルス経由サンパウロ行きは、2005年秋に廃止になった。) 5月3日朝、サンパウロ着。此処で、ベレン行きの飛行機に乗り換える。日本からサンパウロまで南下して、今度はベレンまで北上するのは、ずいぶん遠回りの旅だが、ブラジル航空のハブはサンパウロなのだから仕方がない。それにしてもサンパウロからベレンまでほぼ5時間と遠い。午後3時頃、ベレンのホテル着。 2)ベレンにて ベイラリオ・ホテルは、アマゾン川の面した小さなホテル。夕食までは、時差調整のための休憩時間なので、プールに出かける。飛行機で固まった筋肉をほぐすには、泳ぐのが一番良い。ひと泳ぎして、誰もいないプールで、仰向きに浮きながら空を眺めると、コンドルたちが高く舞っている。彼等を眺めていると、自分も空に舞っているように思えてくる。やがてバケツの水をぶちまけたような、激しいスコールがやってきたので、部屋に戻る。このスコールは、乾期でも、ほぼ毎日やってくるらしい。でもすぐに止む。 夕食に出かける途中、スーパー・ヤマダに立ち寄る。ベレンで最大のスーパーで、山田さんは、日系人の成功者の一人だとか。ビールのつまみを捜していたら、栗ほどの大きさのナッツを見つけた。ブラジリアン・ナッツで、油っぽくて、3粒も食べたら腹いっぱいになりそうだ。カシュウ・ナッツもブラジルの特産品とか。缶詰の表の絵で、このナッツが果物のお尻についている事をはじめて知る。 東京のお台場を参考にして再開発された、ベレン港の旧倉庫地帯・ドック・ステイションは、南欧風の雰囲気も加味された、なかなかしゃれた場所。その中のレストラン「波止場」で、ベレンの泥蟹「カランゲージョ」の爪を、ちょっと舌のしびれる野菜「ジャンブー」であえた料理で乾杯。とにかく旨い。一匹で一つしか取れない爪を、何匹分食べたのだろうか。メイン料理のアマゾン鯰や地鶏がでる前に、ほぼ満腹状態。今回のツアーの参加者は、男女それぞれ2人の合計4人で、旅のベテランばかり。大正14年生れの男性の次は、昭和10年と11年生れの女性、それに12年生れの小生。アマゾン・トラベル・サービスの社長であり、今回の旅の案内役でもある北島さんは、昭和14年生まれとあって、ほぼ同年代。話が弾んで、アマゾンの地ビール・セルピーニャの小瓶が、次々に空になった。ビール瓶をワインクーラーで冷やしながら、サービスしてくれるのも、赤道直下のベレンらしい。 5月4日朝、アマゾン川に張り出した食堂で、川風を受けながらの朝食は、ビュフェ・スタイル。果物が豊富で、特にパパイヤが甘くておいしい。ハムやチーズの種類も多く、思わず食べ過ぎてしまう。季節ではなかったので味わえなかったが、ベレンの街路樹はマンゴー。熟した実は、誰が採って食べてもいいのだという。 ナザレの大聖堂は、ブラジル人の信仰のメッカ。お祭りの日には、人口50万のベレンに、200万人以上の人が集まるという。その大聖堂の前に、日系病院がある。ベレンに入植した日本人が、自分達のために建てた診療所が発展して病院になり、今では患者の9割がブラジル人だという。医師は全員が日系で、日本での研修も受けており、日本からの援助で医療設備も整っているので、ベレンではもっとも信頼されている病院だという。因みに、機内の日系二世の青年の話によると、ベレンでの生活費は日本の半分以下。これから、老後の長期滞在を考える向きには、ちょっと遠いが、ベレンも考えて見る価値がありそうである。日本語で診断が受けられる病院の存在は、長期滞在には欠かせない。かなり現地語の達者な人でも、しくしく痛むのか、きりきり痛むのか、そのニュアンスを正確に伝えることは難しい。また、かなり大きな日本人社会があり、日本料理の食材も豊富なのも、長期滞在には好条件である。 ベレン郊外にある群馬の森は、北ブラジル群馬県人会が、地球環境と熱帯雨林保護を目的として設立した、農林試験場。約400ヘクタールの保護原生林は、アマゾンの原生林の生態を観察するには絶好の場所。入口で、イッペーの苗木を記念植樹したあと、1時間ほどの原生林トレッキング〈写真2〉。温度は日陰で30度、湿度は90%以上、汗が吹き出る。季節外れとあって、我々は出会えなかったが、蘭や蝶の宝庫らしい。約100ヘクタールの再生林では、胡椒とマホガニーの混合植林実験。焼き畑農業で荒れた土地を、持続的に利用しながら、アマゾンの森を復活させようという試みである。また、世界最大の淡水魚・ピラルク〈写真3〉の養殖実験池もある。掌ほどもある生きた魚を池に放り込むと、投げ入れられた魚が泳ぎだす間もなく、ピラルクが水面に飛び上がるようにして現れ、魚を一呑みにして、水中に消える。50キロ近い怪魚なのに、動きは鋭い。一昨年、マナウスで見たピラルクは、水底で眠る太った豚のイメージがあったが、今回のピラルクは、飢えた鰐のように思われた。どちらも本当の姿であろう。この翌日、サンルイス牧場の夕食にはピラルク料理が出た。白身のカジキといった味で、川魚特有の泥臭さはない。ブラジルの高級魚だという。 ベレンの人々の避暑地、モスケイロ島のレストラン「ぱらいそ(天国)」で昼食。砂浜と静かに打ち寄せる波は、一見、海辺の景色なのだが、濁った水は間違いなくアマゾン川のもの。ベレンの川海老をつまみに、ビールで乾杯。群馬の森で汗を流しただけに、喉にしみわたる。「海老がたくさん獲れる所には、石油が出る」という伝説があるが、アマゾン・デルタの地下には、大量の天然ガスの埋蔵が確認されているらしい。昼食も終わり近くになった頃、一転にわかに掻き曇り、突風と一緒にスコールがやってきた〈写真4〉。 スコールの通り過ぎるのを待って、ベレンに戻り、エミリオ・ゴルェジ博物館に立ち寄る。夕食は日伯会館の隣のレストラン「博多」で刺身定食。ブラジル近海ものだという鱸(すずき)の刺身が旨い。ブラジルの食事は、朝と昼にたくさん食べて、昼寝をし、夜は簡単にというスタイルだとか。 3)サンルイス牧場−その1 5月5日、朝5時半。まだ暗いうちに朝食ブッフェ。果物でおなかを一杯にして、6時15分にホテルを出発、空港に向かう。でも着いたのは、ベレンのアエロ・タクシー乗り場。バスターミナルのような建物の前には、十数台のセスナ機が並んでいた。我々は、そのうちの2台に分乗、サンルイス牧場を目指す。前のセスナには、北島さんと女性二人、それに荷物。後ろのセスナには、北島さんの友人の吉丸さんと男性二人に添乗員の明日香ちゃん。これで重量のバランスが良いらしい。ベレンの町を後に、セスナはパラ川(アマゾン川の分流)を越え、九州よりも大きいという川中島・マラジョー島の上を飛ぶ。我々のために、低空飛行をしてくれているので、湿地帯で草を食む水牛の姿や、飛び立つ白い鳥の姿も良く見える〈写真5〉。島の半分は森、半分は湿地帯である。水路に沿って、家が点在する。此処の交通手段は、小船かセスナ。道路は見当たらない。我々の目的地は、このマラジョー島の北にあるカビアナ島。ベレンから約250キロ、セスナで約1時間の距離である。天候の安定している朝に飛んだおかげで、朝7時過ぎに、セスナは、サンルイス牧場の草むらに、泥水を跳ね上げながら、無事着陸した。滑走路の脇には、赤道を示す公式測量点が、何気なく建てられていた〈写真11〉。 牧場での部屋割りは難問のように思われた。本館から100メートルほど離れた池に、突き出して建てられた高床式のロッジ〈写真7〉は二つしかない。誰もがそのロッジに泊まりたいだろうと思った。でも女性二人が、離れは寂しすぎるからという理由で、本館を選んでくれたので、男性二人が、一部屋づつロッジを占拠することが出来た。ラッキーである。 部屋割りのあとは、今日2度目の朝食。我々が「大王」と名付けた、牧場主のマルセロさんは、カメハメハ大王を髣髴させる巨体で、40歳くらいだろうか。日頃はベレンに住んでいるが、今日の準備のために、先に来ていたのだという。ここの朝食は、すべてが自家製。大王自らが、自分の作った窯でパンを焼き、燻製ハムを作る。水牛や豚の腿肉の大きな燻製を、シュラスコを削るように切ってくれる。水牛の乳で作ったチーズも、モッツアラレ・チーズのようにあっさりしていて、なかなかいける。僕が気に入ったのは、ピトゥンバという杏に似た果物で作ったジャム。チーズやパンにつけると、酸味と甘みの調和したジャムの味が引き立つ。出されたジュースは、時計草、グアバ、ピトゥンバ、椰子といった牧場で採れた果物。大王はこれに砂糖を入れて飲む。 朝食を終えて、牧場内の湿地帯を、水牛とロバに乗って散策〈写真1〉。水牛は、背中も広く、安定感があって、乗り心地が良いが、ロバの狭い背中は、よく揺れる。小さな水路を跳び越す時など、僕を乗せた小さなロバが、滑って転びはしないかと心配する。でも約1時間の散歩は、助けを借りることなく、一人で手綱を操り、無事帰着。 昼食でビールを飲んだ後は、ロッジのベランダにハンモックを取り付けて、シエスタ(昼寝)。アマゾンの川風が、池の上を渡って冷やされ、ハンモックを揺らす(写真8)。朝が早かったせいもあって、寝つきがいい。 夕方のトレッキングは、昨年9月の大ポロロッカで、被害をこうむったというジャングルの散歩。長靴に杖といういでたちで出発。ポロロッカの運び込んだ大量の泥で覆われた小道には、所々に足を取られる泥沼がある。それを杖で確認しながら歩くのだが、間違って足を踏み入れると、ゆっくりと沈み込んでゆき、足が抜けなくなる。おまけに、長靴の底が、泥と密着してしまい、無理に抜こうとすると、足だけが抜けてしまう。この泥沼を上手に歩くには、裸足で、右足を下ろしたら、その足が沈み込む前に、左足を出すことである。立ち止まってはいけない。かつてはきれいな砂浜であったという場所には、大きな流木が流れ込んでいて、インドネシア地震の津波の後の風景を思い起こさせた〈写真12〉。牧場の船着場も、この時に流されたのだという。何処か遠くで、お祭りでもやっていそうな音がする。吠え猿たちの声が交じり合って、このような木霊になっているのだという。 夕食の後は、夜のポロロッカ見物。我々の為に応急修理したポロロッカ観測台は、先ほど完成したばかり〈写真14〉。削ったばかりの木の香りが良い。その先端で、ビールを飲みながら、ポロロッカの来るのを待つ。今日は新月、星空の下、真っ暗な川面を見ながら、話が弾む。こんな夜には、「イルカの王子様が出てきて、女達を孕ませる」のだという。これは、女達にとって、都合の良い伝説だが、時には、生まれた子供を、川の中の「イルカの王子様」に、送り返す事もあったらしい。男達の伝説は、黒い髪の鰐さんで、彼女等は財布を丸ごと呑み込む。ピンク・イルカのお姫様は出ませんかと尋ねたら、伝説のイルカは全部が男性ですという答え。ピンク・イルカはオカマちゃんという話になってしまった。 ロッジの部屋は西側がシャワーとトイレでふさがっているが、南北と東から風が通るように作られている。窓も扉も全部開け放して網戸にし、ベッドの上に蚊帳を吊って、その中でパンツ一丁の裸で寝る〈写真9〉。赤道直下、扇風機がなくても、自然の風のおかげで、思ったより寝心地がいい。自家発電機が止まるのは、夜の11時。池の上に突き出たロッジの、静まり返った暗闇に一人、眠る以外にすることはない。 5月6日明け方。窓が鳴って雨が吹き込み、肌寒さを感じて、目を覚ました。パジャマを着て、窓を閉めたものの、寝付けない。スコールが去ると夜明け。ベランダに出て、池に映る、朝焼けの風景の写真を撮る。受験生の頃、徹夜明けで、木曾川の堤防を散歩して、朝焼けを眺めたことを思い出した。池の中で眠っていた水牛が、起きだして、水音を立てながら、ゆっくりと陸に上がってくる。どこからか馬達も現れて、群れを作る。アマゾン・デルタの朝の静けさを、鳥達が破る。 4)アマゾンの大逆流『ポロロッカ』 朝食を終えてすぐ、長靴を履き、セスナの滑走路を横切って、昨夜と同じ観測台に行く〈写真13〉。昨夜は何も見えなかったが、この船着場付近は遠浅で、かなり先のほうでも水鳥が散歩している。当初は船着場として作られたのだが、昨年の大ポロロッカがもってきた泥で埋まってしまって、とても船を着けられる場所ではない。セスナ以外にこの島から脱出の道はなさそうである。 正面に見えるのは、メシアナ島。右手上流に見えるのが、マラジョー島。二つの島は河口デルタの湿地帯とあって、島影は低い。左手下流は大西洋である。今日は好い天気で、風もない。遠浅の川面は、まったく静かな湖面のようで、空に浮かんだ雲が、メシアナ島の低い島影をはさんで、逆さ不二よろしく、川面に映る〈写真16〉。 左手の水平線上に、キラキラと光る線が現れると、やがて波の音が聞こえてきた。ポロロッカである。こちらへ真っ直ぐに向かってくる。しかし、その光る線の下に、茶褐色の波が見えるようになると、その先端部は流線型になり、メシアナ島の岸に沿うように進む。こちらから見ていると、褐色の舌が伸びて、雲が映っている鏡水面を呑み込んでゆくように見える〈写真17〉。舌の先端が、メシアナ島先端と重なる頃、其の舌の裾野が、やっとこちらの岸に到着した。波の高さは低いが、瞬く間に水位が1メートルほど上がる。我々の観測点の前には、昨年の大ポロロッカで流された船着場の杭が、そのまま残されているので、水位の変化を見るには好都合である(写真18)。波はこちらの岸にぶつかると、反射波となって、戻ってゆく。ポロロッカの巻き上げた泥で、雲の映っていた鏡水面は、跡形もなく消えた。 第一波のポロロッカの後には、第二波がやってきた。キラキラと光る線は同じだが、今度は、波も大きく、上流への流れを伴っている〈写真19〉。流速は15−20キロくらい、自転車よりも早そうである。水位はさらに50センチほど上った〈写真20−21〉。5‐6分間、上流への流れが続いたであろうか、流れは徐々に速度を落として止まった。なぎが訪れた。波もない静かな泥海が眼前に広がる。〈写真22〉 第三波のポロロッカは、上流のマラジョー島の方からやってきた〈写真23〉。これが一番大きい。地形から判断すると、この第三波は、マラジョー島とメシアナ島の間の水路を遡ってきたポロロッカが、カビアナ島とメシアナ島の間の水路のポロロッカ(我々の見た第一波や第二波)とぶつかり、合流してマラジョー島に跳ね返って、こちらに戻ってきたら物らしい。古い船着場の杭の上に残っていた横板が、流れに洗われている。我々の観測台は、古い船着場よりも1メートルほど高く作られているので、足元が洗われることはない。しかし、昨年の秋に、古い船着場でポロロッカを見ていたら、今頃はピラニアの餌になっていたかもしれない。昨年のポロロッカの泥で、流れが変わり、凄みのあるポロロッカを見ることは出来なかったのは残念だが、アマゾンで溺れるより、良かったかもしれない。 潮の満ち干きによって、海水が河川に流れ込むのは、何も珍しいことではない。ただ、その逆流が、津波のように、目に見えるような形で現れるのは、特殊な地形による。大逆流が見られる中国の銭塘江やアマゾンの河口付近は遠浅で、両岸がきれいな三角形に開いている。即ち、広い海からやってきた潮汐波は、徐々に狭いところに入ることで、エネルギーが面から高さ変換され、高い波になる。その波が緩やかな流れの川を遡る。干満の差の大きな大潮の時に良く見られる現象である。アマゾンの大逆流・ポロロッカ(またはボア)は、手持ちの資料によると、時速15−20キロ、波の高さは、数メートルに達することもあるとか。この大逆流は河口から400キロ近くの上流にまで到達するという。実際に今回見たのは、1メートルほどの高さの波が、自転車並みの速度で逆流するもの。期待した数メートルの波には程遠く、ちょっとガッカリ。しかし、数分間で川の水位は2メートルほど上がったのには、驚きを禁じえない。 ツアーの案内によると、翌日は舟でポラロッカを見に行くことになっていたが、船着場が使えないとあって、結局、昨日と同じ場所でポラロッカを眺めることになった。ツアーとしては、最低の選択である。大手の旅行会社なら、違約金も請求できるが、小さな会社の、テスト・プログラムではそれも難しい。帰国後、テレビでレンソイルという、白砂の砂丘が近くにあることを知って、臍をかんだ。 5)サンルイス牧場−その2 5月6日。ポロロッカを見た後は、本館のサロンで、農場の片隅にある小学校の生徒達による民族舞踊・カリンボの披露。小学生といっても、半分くらいは牧場の従業員。なじみの顔もいる。まだ幼稚園くらいの小さな子供もいるので、平均年齢は18歳位であろうか。ポルトガル風の民族衣装で着飾っての晴れ舞台。バイヨンとパソドプレの混じったようなリズムで、男女ひと組になって踊るフォークダンスは、どことなくポルトガルのにおいがする。最後のジルバでは、最年長の酒井さんと小生も、小学生を相手に踊る。 例によって、昼食の後はシエスタ。夕方になって、牧場の中の池で、岸から釣り糸を垂れる。でも、どうやら、魚たちはまだ昼寝らしい。仕方がないので、ロッジに繋いであるボートで池に出る。この池には、ピラルクが数匹飼ってあるとか。夕食は、昨夜に続いてピラルクの料理。昨晩はフライだが、今晩はジャガイモと一緒のオーブン焼き。我々のために、池のピラルクが一匹犠牲になったらしい。 5月7日。朝のポロロッカ見物。船着場の傍には、水牛の死体が流れ着いていた。ポロロッカの先端は波が巻いているので、破壊力がある。昨夜の高さ1メートルほどの波でも、水牛が溺れ死ぬ。禿鷹達が盛んに突付いているが、皮が硬くて破れない。この水牛の死体、ポロロッカの第一波で、あっという間に流されてしまった。小さいように見えても、ポロロッカの威力を実感させられた。 ポロロッカの流れを利用して、三人の祈祷師が隣の島からやってきた〈写真24〉。日本では、僧侶が各家庭を訪れて、訳のわからない漢語で経を読むが、この祈祷師達も、わけのわからないラテン語で、お祈りを捧げる。牧場の従業員達は、神妙な顔をして十字を切る。 シエスタの後は、牧場の従業員とその子供達による、ロデオや競馬。大人達が、牛にロープを掛けて横倒しに倒すと、数人の子供たちが駆け寄って、その中の一人を牛に跨らせる。騎手になった子供が、片手で牛の尻尾を掴むと、牛を立ち上がらせ、ロープをはずす。牛は子供を振り落とそうと、ぬかるみの中へ懸命に駆け出すが、皆なかなか落ちない。やがて、みんな泥んこになって、池に飛び込む。競馬では、親馬について、子馬も走る。我々観客がいるおかげで、従業員達も楽しそうである。此処の従業員達は、親子三代というのが多いとか。島を離れたことのない従業員も多いという。 5月8日。昨夜から降り出した雨は、明け方にやんだが、セスナの滑走路は、ぬかるんでいる。今日帰れるかどうか心配したが、1機のセスナが、飛んでくれることになった。ガソリンをマラジョー本島で抜いて、機体を軽くしてから、ぬかるみの滑走路に着陸。我々はセスナの入口で長靴を脱ぎ、機上の人となった。ピストン輸送の後、マラジョー本島で2機に分乗、ベレンに戻る〈写真27〉。 今日は母の日とあって、レストラン博多は、ブラジル人の行列が出来るほど、込み合っていた。北島さんによると、日本食はブームで、箸を上手に使えるのは、「ナウいこと」だという。でも、彼らの注文するのは、鉄板焼き。まだ刺身を食べる人は少ないらしい。 夕刻サンパウロに飛び、日本人街にある「日系パレスホテル」泊。 6)サンパウロ 5月9日、久しぶりにお風呂に入り、エアコンの利いた部屋で寝る。朝食のブッフェは果物が一杯。メロン、パパヤ、スイカ、パイナップル、バナナ、どれをとっても、日本の果物よりずっと甘くておいしい。町の屋台では富有柿やふじ林檎、いろいろな蜜柑も売っている。日本人移民が品種改良した成果だという。第二次世界大戦では、ヨーロッパに対する食料供給国として、ブラジルに農業ブームが起こった。そのブームを支えたのが、日本人移民だという。農業者としての日本人の評価は高い。因みに、日本で消費されるオレンジ・ジュースの7割はブラジルが原産とか。カリフォルニア・オレンジの会社が、日本から受注して、ブラジルに出荷依頼をするのだという。 ブラジルのインディオ達は、自然の中で生きる人々。ポルトガル人に脅かされても、殺されても、仕事はしなかったという。そこで仕方なく、黒人奴隷をつれてきて、働かせたのだとか。サンパウロの日本人街は、昔の黒人奴隷の死刑場。白人達が気持ち悪がって住まなかった場所に、「御祓い」をして住み始めたのだという。奴隷制度に関係のない日本人には、祟りもなく、今ではサンパウロの名所になっている。提灯を模した街灯や、赤い鳥居、地方都市の駅前商店街を思わせるたたずまいには、床屋もあれば、スーパーもある。日本語も通じるし、異邦人という感覚はない。でも、日本風の看板を出していても、半分くらいは中国人や韓国人のお店だという。ガイドの立花さんは、戦後、こちらへ花嫁移民をしてきた人。ブラジル人と日本人の食文化に対する考察が面白い。 日本人街の散策を終えて昼食。午後はサンパウロ市の中心街と、サンパウロ大学の構内を見学。ビル街には、日本企業の進出も目立つ。 夕食は、シュラスコ専門店の「ノビロ・デ・パラタ」。このお店は、シュラスコの「わんこそば」。焼きたての串から、要らないと言うまで、次々と肉を切り取ってくれる。冷めたら、別の皿に残して、新しい温かい肉を貰う。冷めた肉は豚の餌だという。いかにもブラジルらしい話である。駱駝のような瘤のある「瘤牛」の瘤は、エイの鰭のように、ゼラチン質と肉が、混じりあってなかなか美味しい。因みに、コブウシはインドとブラジルにしかいないとか。ブラジルでしか味わえない珍味だという。乳牛の乳房も食べたが、これは美味くない。 満腹で、飛行機に乗り、その翌々日、成田に帰着。 |
旅行写真 |
水牛に乗る No.1 |
旅人の木の下で No.2 |
ピラルク No.3 |
スコールが来る No.4 |
水牛の居る湿地帯 No.5 |
牧場に着陸したセスナ... No.6 |
高床式のロッジ No.7 |
ロッジのハンモック No.8 |
ロッジのベッド No.9 |
ロッジのデコレーショ... No.10 |
赤道の公式測量点 No.11 |
ポロロッカの爪跡 No.12 |
ポロロッカ観測台 No.13 |
ポロロッカ観測台(2... No.14 |
ポロロッカの来る前 No.15 |
ポロロッカの来る前(... No.16 |
ポロロッカ・第一波。... No.17 |
ポロロッカ・第一波(... No.18 |
ポロロッカ・第二波 No.19 |
ポロロッカ・第二波(... No.20 |
ポロロッカ・第二波(... No.21 |
ポロロッカの凪 No.22 |
ポロロッカ・第三波 No.23 |
祈祷師が来た No.24 |
祈祷師が帰る No.25 |
メインロビーにて No.26 |
空のタクシー No.27 |