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バングラデシュ紀行
旅行先 : ガンジス河のデルタ
 時期 : 2005.3
昔の東パキスタン、即ち、バングラデシュの、マングローブの森・シュンダルバンで行われる、蜂蜜狩祭りを見に出かけました。ガンジス・デルタに浮かぶ、小さなクルーズ船に宿泊して、手漕ぎボートで森に入る、4泊5日の旅です。これは、そんなマニアックな旅の記録です。

1)ボートに乗るまで(3月29日/30日)
3月29日、成田を朝の10時半に出発して、クアラルンプール経由で、バングラデシュの首都ダッカに着いたのは、夜の10時過ぎ。時差の3時間を足すと、ほぼ15時間の旅である。地図で見るよりも遠い。日本のシティホテル並みの設備のあるホテルは、ダッカ市内に2つ。シェラトンと、我々のとまったパンパシフィック。明日からは、シャワーもトイレも共用の狭い船室なので、今日はゆっくりとバスタブに浸かって、ダブルベッドで一人広々と寝る。
3月30日、ジェソール行き飛行機は、夕方の5時発なので、それまではダッカの市内見物。三輪自転車の後輪部分が、客席になっている人力車が、道路にあふれている。その幌は、パキスタンのトラックのように、華やかに装飾され、町に彩を添える。町の主要交通機関らしい(写真2、3)。ダッカの町だけで、ほぼ20万人が、この人力車の車夫だという。自動車はまだ少ない。信号は2−3年前に出来たとのこと。その信号待ちをする我々のバスの両側には、この人力車が接近して止まる。車の窓越しに、我々と眼が合うと、車夫がにっこりと笑う。バングラの第一印象は悪くない。
英領インドから、宗教の違いで独立したパキスタン。そのパキスタンから言語の違いで独立したバングラデシュ。北海道の二倍程度の土地に、日本人よりも多い人々が住む国。ガンジスとプラマプトラの二大河のデルタ地帯に位置し、ひとたび洪水となれば、国土全体が水の中に沈む国。世界の最貧国の一つだといわれ、日本人観光客も殆ど訪れない国。ハイジャックした日本赤軍が、リビアに旅立ったダッカ空港。イスラムの国なので、酒も飲めない。出発前の印象は決してよくない。
ダッカの中心にあるスターモスクの正面で、富士山が描かれたタイルを見つけたり、バングラの国旗が、白の代わりに緑を使った、日の丸である事を発見して、この国になんとなく親しみがわく。ダッカのショルドガット港は、プラマプトラ川に開けた港。艀の往来が激しい。日本人観光客が珍しいらしく、艀から手を振ってくれる人々が多い。この港には、ストリート・チルドレンが多くたむろしていたが、観光客慣れしていないせいか、物をねだる態度は控えめで、NOといえば引き下がる。
17世紀、ムガール帝国のベンガル総督によって建てられたという、ラルバーグ城は、いわば代官屋敷。インドのタージ・マハール廟に何処か似ているような建築様式と、広い庭園は、ダッカの若い二人にとっての、ちょっと洒落たデート場所らしい(写真1)。我々が城壁の見張り台に立つと、城壁の外側にある学校の女生徒たちが、珍しいものでも見るように、学校の屋上に集まって、我々に手を振り始めた。我々も手を振ったり、写真を撮ったり、楽しい瞬間であった。いつの間にか、我々の後ろには、土地の男の子達が集まっていた。彼らも我々が珍しいらしい。
ダッカからジェソールまでは、双発のプロペラ機で約40分。よく揺れる。ジェソール空港を出た我々のバスは、いつの間にか警官の車に先導されていた。町のレストランへの狭い道では、銃を持った警官が交通整理をして、我々のバスを通す。まさにVIP待遇である。道の両側では、何事が起きたのかと、町の人々が我々を眺めている。
夕食後、ジェソールからシャッキラまでほぼ4時間、雷雨の中を我々のバスは、走り続けた。この間も、銃を持った4人の警官の乗せたジープが先導を続ける。この地域の治安に問題があるのであろうか。我々のバスの助手席にも警官が座り、先導のジープと絶えず無線連絡を続けている。それを子守唄に、僕は眠り続けた。バングラでは駄目かと思っていたビールが、飲めたおかげである。因みに、観光客へのビールのサービスが許可されたのは、この一・二年のこととか。350CCのハイネケンが、一缶5ドルと高いが、この暑い国ではありがたい。産業の少ないバングラでは、これからは観光収入を増やそうというのが国策とか。警官の先導も、アルコール飲料の緩和も、観光大臣の一言だという。バングラは人民共和国で、イランやパキスタンのようなイスラム共和国ではないので、イスラムの教義だけがすべてではないらしい。そういえば、マレーシアもイスラムの国だが、アルコール飲料に不自由はない。
夜11時近く、懐中電灯を頼りに、真っ暗闇の畦道を歩いて、土手から艀に乗り、運河の中央に停泊するクルーズ船に乗り移る。我々観光客8人に、添乗員と現地のスルーガイドを加えた10人で、クルーズ船の客室は満室。メインフロアにある客室は、2畳くらいのスペースに2段ベッド。上段に荷物を置いて、下段に寝るスタイルである。下の階は、台所やクルー達の部屋。上の階は食事をしたりするデッキ。小さなクルーズ船である(写真7)。

2)蜂蜜ハンター達の村(3月31日)
バングラの一日は、夜明けと共に始まる。昨晩は扇風機をかけたまま眠ったが、電気は朝の2時頃に消えた。暑苦しいので眼が覚めたら、外が白み始めていた。外に出てみると、川面に走る風が心地よい。デッキにあがって、川面に登る朝日を眺める(写真4)。モーニング・コーヒーを片手に、岸辺に眼をやると、腰まで水につかりながら、網を引く女性や子供たちの姿が見える。小さな海老を掬って、養殖池に一匹1円くらいで売るのだという。朝の干潮で出来た干潟を背景に、赤や緑の色鮮やかなサリー風の衣装で、青い網を引く女性の姿は、一幅の絵である。望遠レンズで狙っていたら、気がついたのか、こちらを向いてにっこりとしてくれる(写真5、6)。
朝食前のモーニング・クルーズは、小船に乗って、マングローブの森の中の小さな水路に入り込む(写真9)。緑の中で、朝の空気を満喫する。海水と混ざり合った水は、川からの細かい泥を含んでいて、濁ってはいるが、ゴミはない。バングラでは2年ほど前から、環境保護のため、プラスチック包装を禁止したのだとか。水路の両脇の干潟には、マングローブの気根が筍のように林立し(写真8)、ムツゴロウのようなトビハゼがうごめき、蟹が散歩する。時にはカワセミが、鮮やかな姿で、川面に飛び降りる。
デッキで朝食のあと、メインフロアのカフェで、NHKの世界遺産シリーズで放映されたという、「少年ハニーハンター」のビデオを見る。このモデルになったハニーハンター達は、明日からの我々の蜂蜜狩りの案内人。打ち合わせのために、我々の船までやってきていた。電気もなく、まして、テレビもビデオもない村では、せっかくの映像をまだ見ていないとのこと。我々の後ろで、ちょっとテレながら、テレビに映った自分達の姿を、うれしそうに眺めていた。少年ハニーハンターは、昨年の映像に比べて、ずっと男らしくなっている。
ブルゴアリニ村にある森林事務所に挨拶、所長を囲んで記念撮影。蜂蜜狩り祭りの開会式は、明日、この事務所の庭で行われる。森林事務所の裏庭を通って、ブルゴアリニ村の、ハニーハンターの家々を訪問。我々が土手の道を歩き始めると、まず子供達が付いてきた。そして、そのあとから赤ん坊を抱いた女性や、少し大きめの少年達もついてくる。我々がハニーハンターの家に着いた頃には、一大群集になっていた。写真を撮ろうとすると、子供たちが競って画面に顔を出そうとする。デジカメで撮った映像を、見たいらしい。でも年頃の少女達ははにかみやさん。遠くから我々を眺めている(写真11)。
我々のスルーガイドのワヒドさんは、NHKの「少年ハニーハンター」制作の折の、現地折衝係り兼通訳。この村では有名人である。彼の案内とあれば、村人は、喜んで家の中まで見せてくれる。彼らの家は、1メートルほどの高さのコンクリートの土台の上に建てられた、日干し煉瓦で造った、藁葺小屋。8畳くらいで窓はない。ここに親子数人が住むという。扉はなく、カーテンらしき布がある。換気は広く開いた入り口かららしい。住環境の貧しさに比べて、女性達はこぎれいに着飾っている。この国の繊維製品は、輸出産業で、安いのだとか。男の半分くらいは、上半身裸で、下半身にはルンギと称する、腰巻を巻いている。誰も靴や草履を履いていない。道はぬかるみが多いので、履物はすぐに泥で汚れるが、裸足についた泥は、乾けばすぐ落ちる。
午後は、対岸のドゥムリア村を訪問。ここでも、状況は殆ど同じ(写真12,13,14)。帰る頃には、我々を見に来た人で、村の船着場は一杯。皆で手を振って送ってくれた。
夕方のマングローブの森の水路クルーズは、朝のクルーズとほぼ同じコース。でも、干潮の朝の風景と、満潮の夕方の風景では、まったく違った印象を受ける(写真15)。

3)蜂蜜狩り(4月1日)
今朝も、小船でモーニング・クルーズ。我々が戻ると、本船はゆっくりとコラガチア村に向かって動き始めた。デッキで、川風を受けながらの朝食はまた格別。
コラガチアの森林事務所は、森の男達の生活の場。銃が立てかけてある以外は、森林事務所らしき趣はない。土間のそれぞれのコーナーには、万年ベッドが置かれ、裏口に近い床には食料が並べられている。天井からはいろいろな生活用品が、ぶら下がっている。裏に出るとかまどのある炊事場。その向こうはプール、といっても底の見えない池だが、管理官は、気持ち良さそうに水浴びをしていた。もちろんランプ生活。管理官たちは、この事務所に、単身赴任で、半年以上も家族に会えないことが多いという。
4月1日は蜂蜜狩り解禁の日。でも、今日は金曜日なので、イスラム教の安息日。解禁の号砲は、夕方にならないと鳴らない。したがって、実質的な解禁は、明日からである。でも、「特別のお客さんが、森に遊びに行く」ということで、我々は蜂蜜狩りをすることになった。制服に身を固めた、二人の森林管理官が銃を持って付き添い、蜂蜜ハンター達が、あらかじめ見つけておいた蜂の巣へ、我々を案内するという算段である。
小船からマングローブの森に上がるには、朝の干潮で出来た干潟の土手を登らなければならない。土地の人々は、裸足で軽快に登ってゆくが、我々はヌルヌルの泥に足を盗られて登れない。立ち止まると、ゆっくりと泥の中に沈んでゆく。船で用意してくれた長靴を履いているのだが、その長靴がなかなか抜けない。無理に抜こうとすると、長靴から足が抜けてしまう。ハンター達に、長靴ごと足を抜いてもらい、手を引いてもらって、やっと森にあがることが出来た。この経験に懲りて、2回目からは、木の枝を切って、干潟に敷いて貰い、その上を歩くことにした。こうすれば荷重が分散するので、泥沼に沈まない。
マングローブの森は歩きにくい。木の周りには、気根が林立しており、足の踏み場を探すのに苦労する。また、気根の高さは、30センチ近くもあるので、それに足を引っ掛けないように歩くには、大きく足を上げて歩かなければならない。これは、ただでさえ躓き易くなっている老体にとっては、なかなかの試練である。因みに、塩分の多い水辺で生きるマングローブにとって、体内から塩分を放出することは、至上命令。その役割を果たしているのが、根の先が空中に突き出た気根である。蜂蜜ハンター達は、そんな森を走り回りながら、蜂の巣を探すのだという。
蜂の巣が見つかると、やや離れた場所で、小枝を切って、蜂を燻すマングローブの束を作る。煙で燻されると、蜂の巣は大騒ぎ。それに近づいていったハンターは、素手で巣の蜜のある部分だけを切り取る。頭に赤い布を巻いて、顔を覆ってはいるが、シャツは半袖で無防備に近い。一方、我々は、厚手のシャツに手袋、長靴で武装して、頭から網を被ってそれを見守る。木陰にしゃがんでいる我々の頭上では、ハンターが立って煙を振りまく。これでは、我々が蜂に刺されようがない。彼らは、蜜を取るが、蜂の子の住む部分は決してとらない。間違って取った蜂の子でも、森から持ち出すと、罰金らしい。

4)蜂蜜狩り祭り(4月1日)
開会式の会場に着くと、我々は前から2列目の肘掛のついた椅子席に通された。3列目からは、木の折りたたみ椅子の一般席。我々は、遠来の客として、来賓である。式では、添乗員の酒井さんが日本人を代表して英語で挨拶。でも、ジャパンとフレンドという言葉以外に、内容を理解した人は、誰もいなかった様子。現地の新聞の特派員という人々も、僕に握手を求めてきた村長さんも、英語は片言程度。ましてハニー・ハンター達は、英語はおろか、標準ベンガル語だって怪しい。通訳はいない。
3時開会という事なので、我々は定刻5分前に到着したのだが、まだ誰も来ていない。開会式が始まったのは4時を過ぎた頃。ひな壇には、国会議員だという、眼鏡をかけて偉そうな顔をした人を中心に、通訳兼秘書らしき人と、森林事務所長が両脇に並ぶ。その脇の演壇では、弁士が入れ替わり立ち代り、演説をする。それをガイドのワヒドさんが要約して、我々にイヤホンで伝えてくれる。どうやら今年の議論の中心は、昨年導入された、ベンガル虎の被害に対する傷害保険料の負担問題らしい。
蜂蜜ハンター達は、9人で1チームになって、小さな舟で寝泊りしながら、1‐2ヶ月を森の中で暮らす。小船で何日もかかる場所まで、遠征するので、家に帰ることはない。それにしても、9人全員がとても横になれるとは考えられ舟である。船べりに凭れて、座りながら寝るのであろうか。アマゾンのインディアンは、木に凭れて眠るとか。蜂蜜ハンター達にも特殊な眠り方があるのであろう。蜂蜜ハンターの問題は、このことではなく、ベンガル虎に襲われることである。ハンター達は、銃を持っていない。持っているのは、木の枝を払う鉈と、蜂の巣を切るナイフだけである。虎に遭遇したら、棒切れで防ぐ以外に、手段はない。ガイドのワヒドさんによると、毎年40人ほどがベンガル虎の犠牲になるとの事だが、これはベンガル全体の話で、蜂蜜ハンターだけの話ではなさそうである。蜂蜜ハンターは、大声をあげたり、爆竹を使って、虎に警報を与えるが、盗伐者や密猟者達たちはそれが出来ない。犠牲の多くは、それらの人々らしい。蜂蜜ハンターは、何年かに一人し死ぬ程度であろう。ベンガル虎の話は、傷害保険導入のために、むやみに誇張されているように思われた。
昨年は、蜂蜜ハンター一人につき100タカ(約120円)の保険料が徴収された。そして昨シーズンには、一人のハンターが虎の犠牲になり、その遺族に25000タカ(約14000円)が支払われたという。でも、我々の案内人でもある、ハンター達の長老の演説によると、100タカは、ハンター達にとって大きな負担なので、政府で何とか払って欲しいとのこと。続いて立った村長も、それをバックアップ。そして最後は、国会議員の秘書が、「今年は国で負担するが、来年からは保険料を支払って欲しい。100タカは、蜂蜜1キロ分なので、それを犠牲者に分け与えて欲しい」と演説。安全祈願を済ませた赤い布切れと、今年の免許証の交付に移った。日本の卒業式さながらに、名前を呼ばれた蜂蜜ハンターのリーダーが、国会議員氏から、恭しく免許証を受け取る。リーダーの数は30人ほど、言い換えれば、蜂蜜ハンターたちは300人くらいらしい。僕に言わせると、期間の短さや危険度の算定から、この保険料は高すぎるように思われる。それにしても、この保険は、外国の保険会社のものとか。バングラの無知の民衆は悲しい。
蜂蜜狩り開始の号砲で、会場前に集まった舟がいっせいに漕ぎ出すのを見物するため、式が終わる少し前に、小船に戻る。夕暮れが迫る5時頃、号砲はなったものの、今日は実質的にお休みとあって、船の出発は三々五々。景気付けに飛び出してゆくものもあれば、のんびりしている船もある(写真16、17、18)。
ブルゴアリニ村から、我々の舟は、明日蜂密狩りをする予定の、コラガチアに移動。マングローブの森に囲まれた、水路の中央に停泊。周りには何もないとあって、舟の電気を消すと、星空が美しい。電気に吸い寄せられて集まった小さな蛍が、デッキで競演。翌朝、暗いうちに眼が覚めると、蛍が一匹、僕の部屋でも光っていた。

5)ジョイノグル村(4月2日)
例によって、マングローブの森のモーニング・クルーズ。そのあとの朝食には、昨日採取した蜂蜜があった。焼きたてのナンに付けてみると、非常にあっさりとした味である。マングローブの森に咲く白い花・ボシュール(写真19)からの蜜だという。
午前中は2回の蜂蜜狩り(写真20、21)。最後の蜂蜜狩りでは、管理官が銃の試し撃ち。古い銃だが、音はでる。薬夾が銃に挟まって落ちない。手で苦労してはずす。盗伐者に切られた木材を見た、ハンターの長老が管理官に抗議。盗伐者は、まだ近くにいるらしい。我々の警護優先の管理官は、見ない振りのつもりらしいが、「こんなのを見過ごすようでは、お前達は税金泥棒だ」と一言いいたかったらしい。なかなか面白い長老である。本船に帰って「そうめん」の昼食。ビールが旨い。
コラガチアからブルゴアリニに戻り、ここで森林事務所の管理官や蜂蜜ハンター達と別れる。舟はさらに上流に向かって進み、今日の停泊地チャルナを目指す。上流に進むにつれ、マングローブの森が消え、椰子の生い茂る岸辺に、藁葺き屋根や、養殖池の土手が見え始める。そんな風景のジョイノ村付近で、我々は小船に乗り、岸辺近くを走り、本船は川の中央を並走する。村の船着場を見つけて上陸。我々は村に上陸した初めての外国人だという。村の中を見せてもらい、帰る頃には、村の人々が集まってきた。その折の写真を見ると、40人以上の村人が、船着場で手を振っている(写真22、23、24)。
夕暮れの景色を、小船で眺めたあと、本船に戻り、チャルナまで溯り停泊。夕食は川の中央に停泊した、クルーズ船のデッキの上でバーべキュウ。船に積み込んだビールの在庫がなくなってしまったので、ペットボトルに入れて日本から持ってきたウィスキー「お茶け」を持ち出す。

6)バゲールハットのモスク(4月3日)
真夜中から夜明けにかけて、激しい雷雨があったとのことだが、僕は白河夜船、それを知らない。クルーズ船がエンジンをかける音で目が覚めた。舟はチャルナからクルナ港に向かう。朝8時、クルーズ船に別れを告げ、迎えの大型バスに乗り換える。後部座席に荷物を積んでも、8人の観光客には十分に広い。これから3日間、このバスで、バングランの世界遺産を訪ねる。クルナはバングラでも5指に数えられる大都市だが、対岸のバゲールハットに渡る橋はない。フェリーで往復。因みに、このフェリーは、アジア・ハイウエイの側線(1b)の一部である。
ベンガルは、紀元前のマウリア王朝から、6世紀のグプタ朝まで、インド諸王朝の辺境であったが、8世紀になって始めて、ベンガルを根拠地とする仏教王朝・パーラ王朝が成立。しかし、12世紀にはヒンドゥー教のセーナ王朝に代わり、さらに、13世紀に入ると、インド・モスリム諸王国の侵入を見る。16世紀以降は、ムガール帝国領に編入され、皇帝から任命された総督によって統治された。
そのインド・モスリム諸国の進入の時代、トルコ系の武将ハーン・ジャハーンが、シュンダルバンの森を切り開いて、サイクロンや洪水と戦いながら、町を築き上げた。その折の土木工事で出た土で、レンガを焼き、360あまりのモスクを作ったという。モスクそのものは、観光に値するほどのものではないが、その歴史は興味深い。友人の小野田猛史が、その著書の中で、「応神天皇稜などの大墳墓は、灌漑のために作られた貯め池から出た土を利用したものだ」と述べているが、このモスクのケースも、宗教を利用しながら、開発を進めたのであろう。モスクを案内してくれた、僧侶の額には、3っの痣がくっきり記されていて、奇妙な圧迫感を覚える。お祈りで、地に額をこすりつけるために出来た、「たこ」だという。
再びクルナに戻って、昼食の後、アジア・ハイウエイ1bを北に進み、ラジャヒに向かう。道はさすがに良い。2004年に日本の援助によって建設された、ガンジス川にかかる橋に差し掛かり、写真休憩。橋の写真は、軍事機密なので、撮影禁止なのだが、橋の管理官に掛け合ったところ、橋の袂の記念碑の写真はOKとのこと。管理官もやってきて、一緒に記念撮影。道が良かったので、9時到着の予定が、6時半にラジャヒのホテル着。

7)バハールプールの仏教遺跡(4月4日)
朝、ガンジス川の昇る朝日を観賞。でもこの一帯のガンジス川は、枯れ川に近い。インド側にダムがあることから、インドとの水利権争いもあり、乾季には殆ど水が来ないのだという。その代わり雨期には、洪水が来る。力の弱いバングラは、どうしようもない。中国に、恐喝されて黙っている日本と同じである。ガンジスの川原から、ホテルまでの五百メートルほどを、バングラ名物の人力車で帰る。一人当たり約30円。
朝食後は、ホテルの前の動物園。シュンダルバンでは、出会えなかったベンガル虎にご対面。獣医が吹き矢を使って、ベンガル虎に注射を打つ場面に遭遇する。
昼食の後、バハールプールにバスを走らせる。昨日と違って、細い田舎道。バハールプールの仏教遺跡は、先に述べたパーラ王朝時代の遺跡が発掘されたものである。インド・パキスタンの仏教遺跡のご多分に漏れず、基礎石ばかり。後から入ってきた、ヒンズーやイスラムの王朝に破壊されつくしたのだから無理もない。その壮大さはわかっても、アンコールワットやミャンマーのバガン遺跡のような感激はない。唯一の美術品は、僧院の基礎にはめ込まれたテラコッタ。彫刻されたレンガである。女性の踊る姿など、なかなか面白い。長い尻尾を持った人魚も見つけた。この遺跡には、日本人の訪問者も多いらしい。博物館のガイドが、勝手についてきて、後でチップを要求する。日本語も英語も出来なくて、ガイドという名には値しない。ラジャヒ泊。

8)プティアのヒンズー寺院(4月5日)
午前、プティアのヒンズー寺院群を観光。現在、世界遺産に申請中だということだが、先に見たイスラムと仏教の世界遺産よりは、この方が美術的である。しかし残念なことに、寺院に施された彫刻の顔の部分が、殆ど削り取られている。バングラの独立戦争の頃、駐留したパキスタン軍が、削り取ったのだという。バングラに加勢した、インド軍に対する報復だとか。イスラムの通った後には、他の宗教の文化遺産は残らないらしい(写真25、26、27)。
13時25分ラジャヒ発の飛行機で、ダッカに戻り、ホテルで休憩。夜行便でマレーシアを経由して、4月6日夕方成田着。
実際に見たバングラデシュは、日本で考えていたバングラデシュよりも、清潔で、人々の気持ちも豊かであった。遺跡は期待するほどのものではないが、自然は素晴らしい。
旅行写真
ラルバーグ城
ラルバーグ城

No.1
湧き出る人力車
湧き出る人力車

No.2
客待ちの人力車
客待ちの人力車

No.3
村の夜明け
村の夜明け

No.4
小エビを掬う女性
小エビを掬う女性

No.5
小エビを掬う少女
小エビを掬う少女

No.6
クルーズ船
クルーズ船

No.7
マングローブと気根
マングローブと気根

No.8
水路と手漕ぎボート
水路と手漕ぎボート

No.9
泥水と遊ぶ
泥水と遊ぶ

No.10
少女
少女

No.11
村のメインストリート...
村のメインストリート...

No.12
外国人がやってきた
外国人がやってきた

No.13
海老の養殖池
海老の養殖池

No.14
満潮の村
満潮の村

No.15
蜂蜜狩りの船(1)
蜂蜜狩りの船(1)

No.16
蜂蜜狩りの船(2)
蜂蜜狩りの船(2)

No.17
蜂蜜狩りの船(3)
蜂蜜狩りの船(3)

No.18
蜜のある花
蜜のある花

No.19
蜂の巣
蜂の巣

No.20
蜂蜜狩りの後
蜂蜜狩りの後

No.21
夕涼み
夕涼み

No.22
見送り
見送り

No.23
森の女性と子供
森の女性と子供

No.24
ヒンヅー寺院(1)
ヒンヅー寺院(1)

No.25
ヒンズー寺院(2)
ヒンズー寺院(2)

No.26
勉強中
勉強中

No.27