バングラデシュ紀行 |
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昔の東パキスタン、即ち、バングラデシュの、マングローブの森・シュンダルバンで行われる、蜂蜜狩祭りを見に出かけました。ガンジス・デルタに浮かぶ、小さなクルーズ船に宿泊して、手漕ぎボートで森に入る、4泊5日の旅です。これは、そんなマニアックな旅の記録です。 1)ボートに乗るまで(3月29日/30日) 3月29日、成田を朝の10時半に出発して、クアラルンプール経由で、バングラデシュの首都ダッカに着いたのは、夜の10時過ぎ。時差の3時間を足すと、ほぼ15時間の旅である。地図で見るよりも遠い。日本のシティホテル並みの設備のあるホテルは、ダッカ市内に2つ。シェラトンと、我々のとまったパンパシフィック。明日からは、シャワーもトイレも共用の狭い船室なので、今日はゆっくりとバスタブに浸かって、ダブルベッドで一人広々と寝る。 3月30日、ジェソール行き飛行機は、夕方の5時発なので、それまではダッカの市内見物。三輪自転車の後輪部分が、客席になっている人力車が、道路にあふれている。その幌は、パキスタンのトラックのように、華やかに装飾され、町に彩を添える。町の主要交通機関らしい(写真2、3)。ダッカの町だけで、ほぼ20万人が、この人力車の車夫だという。自動車はまだ少ない。信号は2−3年前に出来たとのこと。その信号待ちをする我々のバスの両側には、この人力車が接近して止まる。車の窓越しに、我々と眼が合うと、車夫がにっこりと笑う。バングラの第一印象は悪くない。 英領インドから、宗教の違いで独立したパキスタン。そのパキスタンから言語の違いで独立したバングラデシュ。北海道の二倍程度の土地に、日本人よりも多い人々が住む国。ガンジスとプラマプトラの二大河のデルタ地帯に位置し、ひとたび洪水となれば、国土全体が水の中に沈む国。世界の最貧国の一つだといわれ、日本人観光客も殆ど訪れない国。ハイジャックした日本赤軍が、リビアに旅立ったダッカ空港。イスラムの国なので、酒も飲めない。出発前の印象は決してよくない。 ダッカの中心にあるスターモスクの正面で、富士山が描かれたタイルを見つけたり、バングラの国旗が、白の代わりに緑を使った、日の丸である事を発見して、この国になんとなく親しみがわく。ダッカのショルドガット港は、プラマプトラ川に開けた港。艀の往来が激しい。日本人観光客が珍しいらしく、艀から手を振ってくれる人々が多い。この港には、ストリート・チルドレンが多くたむろしていたが、観光客慣れしていないせいか、物をねだる態度は控えめで、NOといえば引き下がる。 17世紀、ムガール帝国のベンガル総督によって建てられたという、ラルバーグ城は、いわば代官屋敷。インドのタージ・マハール廟に何処か似ているような建築様式と、広い庭園は、ダッカの若い二人にとっての、ちょっと洒落たデート場所らしい(写真1)。我々が城壁の見張り台に立つと、城壁の外側にある学校の女生徒たちが、珍しいものでも見るように、学校の屋上に集まって、我々に手を振り始めた。我々も手を振ったり、写真を撮ったり、楽しい瞬間であった。いつの間にか、我々の後ろには、土地の男の子達が集まっていた。彼らも我々が珍しいらしい。 ダッカからジェソールまでは、双発のプロペラ機で約40分。よく揺れる。ジェソール空港を出た我々のバスは、いつの間にか警官の車に先導されていた。町のレストランへの狭い道では、銃を持った警官が交通整理をして、我々のバスを通す。まさにVIP待遇である。道の両側では、何事が起きたのかと、町の人々が我々を眺めている。 夕食後、ジェソールからシャッキラまでほぼ4時間、雷雨の中を我々のバスは、走り続けた。この間も、銃を持った4人の警官の乗せたジープが先導を続ける。この地域の治安に問題があるのであろうか。我々のバスの助手席にも警官が座り、先導のジープと絶えず無線連絡を続けている。それを子守唄に、僕は眠り続けた。バングラでは駄目かと思っていたビールが、飲めたおかげである。因みに、観光客へのビールのサービスが許可されたのは、この一・二年のこととか。350CCのハイネケンが、一缶5ドルと高いが、この暑い国ではありがたい。産業の少ないバングラでは、これからは観光収入を増やそうというのが国策とか。警官の先導も、アルコール飲料の緩和も、観光大臣の一言だという。バングラは人民共和国で、イランやパキスタンのようなイスラム共和国ではないので、イスラムの教義だけがすべてではないらしい。そういえば、マレーシアもイスラムの国だが、アルコール飲料に不自由はない。 夜11時近く、懐中電灯を頼りに、真っ暗闇の畦道を歩いて、土手から艀に乗り、運河の中央に停泊するクルーズ船に乗り移る。我々観光客8人に、添乗員と現地のスルーガイドを加えた10人で、クルーズ船の客室は満室。メインフロアにある客室は、2畳くらいのスペースに2段ベッド。上段に荷物を置いて、下段に寝るスタイルである。下の階は、台所やクルー達の部屋。上の階は食事をしたりするデッキ。小さなクルーズ船である(写真7)。 2)蜂蜜ハンター達の村(3月31日) バングラの一日は、夜明けと共に始まる。昨晩は扇風機をかけたまま眠ったが、電気は朝の2時頃に消えた。暑苦しいので眼が覚めたら、外が白み始めていた。外に出てみると、川面に走る風が心地よい。デッキにあがって、川面に登る朝日を眺める(写真4)。モーニング・コーヒーを片手に、岸辺に眼をやると、腰まで水につかりながら、網を引く女性や子供たちの姿が見える。小さな海老を掬って、養殖池に一匹1円くらいで売るのだという。朝の干潮で出来た干潟を背景に、赤や緑の色鮮やかなサリー風の衣装で、青い網を引く女性の姿は、一幅の絵である。望遠レンズで狙っていたら、気がついたのか、こちらを向いてにっこりとしてくれる(写真5、6)。 朝食前のモーニング・クルーズは、小船に乗って、マングローブの森の中の小さな水路に入り込む(写真9)。緑の中で、朝の空気を満喫する。海水と混ざり合った水は、川からの細かい泥を含んでいて、濁ってはいるが、ゴミはない。バングラでは2年ほど前から、環境保護のため、プラスチック包装を禁止したのだとか。水路の両脇の干潟には、マングローブの気根が筍のように林立し(写真8)、ムツゴロウのようなトビハゼがうごめき、蟹が散歩する。時にはカワセミが、鮮やかな姿で、川面に飛び降りる。 デッキで朝食のあと、メインフロアのカフェで、NHKの世界遺産シリーズで放映されたという、「少年ハニーハンター」のビデオを見る。このモデルになったハニーハンター達は、明日からの我々の蜂蜜狩りの案内人。打ち合わせのために、我々の船までやってきていた。電気もなく、まして、テレビもビデオもない村では、せっかくの映像をまだ見ていないとのこと。我々の後ろで、ちょっとテレながら、テレビに映った自分達の姿を、うれしそうに眺めていた。少年ハニーハンターは、昨年の映像に比べて、ずっと男らしくなっている。 ブルゴアリニ村にある森林事務所に挨拶、所長を囲んで記念撮影。蜂蜜狩り祭りの開会式は、明日、この事務所の庭で行われる。森林事務所の裏庭を通って、ブルゴアリニ村の、ハニーハンターの家々を訪問。我々が土手の道を歩き始めると、まず子供達が付いてきた。そして、そのあとから赤ん坊を抱いた女性や、少し大きめの少年達もついてくる。我々がハニーハンターの家に着いた頃には、一大群集になっていた。写真を撮ろうとすると、子供たちが競って画面に顔を出そうとする。デジカメで撮った映像を、見たいらしい。でも年頃の少女達ははにかみやさん。遠くから我々を眺めている(写真11)。 我々のスルーガイドのワヒドさんは、NHKの「少年ハニーハンター」制作の折の、現地折衝係り兼通訳。この村では有名人である。彼の案内とあれば、村人は、喜んで家の中まで見せてくれる。彼らの家は、1メートルほどの高さのコンクリートの土台の上に建てられた、日干し煉瓦で造った、藁葺小屋。8畳くらいで窓はない。ここに親子数人が住むという。扉はなく、カーテンらしき布がある。換気は広く開いた入り口かららしい。住環境の貧しさに比べて、女性達はこぎれいに着飾っている。この国の繊維製品は、輸出産業で、安いのだとか。男の半分くらいは、上半身裸で、下半身にはルンギと称する、腰巻を巻いている。誰も靴や草履を履いていない。道はぬかるみが多いので、履物はすぐに泥で汚れるが、裸足についた泥は、乾けばすぐ落ちる。 午後は、対岸のドゥムリア村を訪問。ここでも、状況は殆ど同じ(写真12,13,14)。帰る頃には、我々を見に来た人で、村の船着場は一杯。皆で手を振って送ってくれた。 夕方のマングローブの森の水路クルーズは、朝のクルーズとほぼ同じコース。でも、干潮の朝の風景と、満潮の夕方の風景では、まったく違った印象を受ける(写真15)。 3)蜂蜜狩り(4月1日) 今朝も、小船でモーニング・クルーズ。我々が戻ると、本船はゆっくりとコラガチア村に向かって動き始めた。デッキで、川風を受けながらの朝食はまた格別。 コラガチアの森林事務所は、森の男達の生活の場。銃が立てかけてある以外は、森林事務所らしき趣はない。土間のそれぞれのコーナーには、万年ベッドが置かれ、裏口に近い床には食料が並べられている。天井からはいろいろな生活用品が、ぶら下がっている。裏に出るとかまどのある炊事場。その向こうはプール、といっても底の見えない池だが、管理官は、気持ち良さそうに水浴びをしていた。もちろんランプ生活。管理官たちは、この事務所に、単身赴任で、半年以上も家族に会えないことが多いという。 4月1日は蜂蜜狩り解禁の日。でも、今日は金曜日なので、イスラム教の安息日。解禁の号砲は、夕方にならないと鳴らない。したがって、実質的な解禁は、明日からである。でも、「特別のお客さんが、森に遊びに行く」ということで、我々は蜂蜜狩りをすることになった。制服に身を固めた、二人の森林管理官が銃を持って付き添い、蜂蜜ハンター達が、あらかじめ見つけておいた蜂の巣へ、我々を案内するという算段である。 小船からマングローブの森に上がるには、朝の干潮で出来た干潟の土手を登らなければならない。土地の人々は、裸足で軽快に登ってゆくが、我々はヌルヌルの泥に足を盗られて登れない。立ち止まると、ゆっくりと泥の中に沈んでゆく。船で用意してくれた長靴を履いているのだが、その長靴がなかなか抜けない。無理に抜こうとすると、長靴から足が抜けてしまう。ハンター達に、長靴ごと足を抜いてもらい、手を引いてもらって、やっと森にあがることが出来た。この経験に懲りて、2回目からは、木の枝を切って、干潟に敷いて貰い、その上を歩くことにした。こうすれば荷重が分散するので、泥沼に沈まない。 マングローブの森は歩きにくい。木の周りには、気根が林立しており、足の踏み場を探すのに苦労する。また、気根の高さは、30センチ近くもあるので、それに足を引っ掛けないように歩くには、大きく足を上げて歩かなければならない。これは、ただでさえ躓き易くなっている老体にとっては、なかなかの試練である。因みに、塩分の多い水辺で生きるマングローブにとって、体内から塩分を放出することは、至上命令。その役割を果たしているのが、根の先が空中に突き出た気根である。蜂蜜ハンター達は、そんな森を走り回りながら、蜂の巣を探すのだという。 蜂の巣が見つかると、やや離れた場所で、小枝を切って、蜂を燻すマングローブの束を作る。煙で燻されると、蜂の巣は大騒ぎ。それに近づいていったハンターは、素手で巣の蜜のある部分だけを切り取る。頭に赤い布を巻いて、顔を覆ってはいるが、シャツは半袖で無防備に近い。一方、我々は、厚手のシャツに手袋、長靴で武装して、頭から網を被ってそれを見守る。木陰にしゃがんでいる我々の頭上では、ハンターが立って煙を振りまく。これでは、我々が蜂に刺されようがない。彼らは、蜜を取るが、蜂の子の住む部分は決してとらない。間違って取った蜂の子でも、森から持ち出すと、罰金らしい。 4)蜂蜜狩り祭り(4月1日) 開会式の会場に着くと、我々は前から2列目の肘掛のついた椅子席に通された。3列目からは、木の折りたたみ椅子の一般席。我々は、遠来の客として、来賓である。式では、添乗員の酒井さんが日本人を代表して英語で挨拶。でも、ジャパンとフレンドという言葉以外に、内容を理解した人は、誰もいなかった様子。現地の新聞の特派員という人々も、僕に握手を求めてきた村長さんも、英語は片言程度。ましてハニー・ハンター達は、英語はおろか、標準ベンガル語だって怪しい。通訳はいない。 3時開会という事なので、我々は定刻5分前に到着したのだが、まだ誰も来ていない。開会式が始まったのは4時を過ぎた頃。ひな壇には、国会議員だという、眼鏡をかけて偉そうな顔をした人を中心に、通訳兼秘書らしき人と、森林事務所長が両脇に並ぶ。その脇の演壇では、弁士が入れ替わり立ち代り、演説をする。それをガイドのワヒドさんが要約して、我々にイヤホンで伝えてくれる。どうやら今年の議論の中心は、昨年導入された、ベンガル虎の被害に対する傷害保険料の負担問題らしい。 蜂蜜ハンター達は、9人で1チームになって、小さな舟で寝泊りしながら、1‐2ヶ月を森の中で暮らす。小船で何日もかかる場所まで、遠征するので、家に帰ることはない。それにしても、9人全員がとても横になれるとは考えられ舟である。船べりに凭れて、座りながら寝るのであろうか。アマゾンのインディアンは、木に凭れて眠るとか。蜂蜜ハンター達にも特殊な眠り方があるのであろう。蜂蜜ハンターの問題は、このことではなく、ベンガル虎に襲われることである。ハンター達は、銃を持っていない。持っているのは、木の枝を払う鉈と、蜂の巣を切るナイフだけである。虎に遭遇したら、棒切れで防ぐ以外に、手段はない。ガイドのワヒドさんによると、毎年40人ほどがベンガル虎の犠牲になるとの事だが、これはベンガル全体の話で、蜂蜜ハンターだけの話ではなさそうである。蜂蜜ハンターは、大声をあげたり、爆竹を使って、虎に警報を与えるが、盗伐者や密猟者達たちはそれが出来ない。犠牲の多くは、それらの人々らしい。蜂蜜ハンターは、何年かに一人し死ぬ程度であろう。ベンガル虎の話は、傷害保険導入のために、むやみに誇張されているように思われた。 昨年は、蜂蜜ハンター一人につき100タカ(約120円)の保険料が徴収された。そして昨シーズンには、一人のハンターが虎の犠牲になり、その遺族に25000タカ(約14000円)が支払われたという。でも、我々の案内人でもある、ハンター達の長老の演説によると、100タカは、ハンター達にとって大きな負担なので、政府で何とか払って欲しいとのこと。続いて立った村長も、それをバックアップ。そして最後は、国会議員の秘書が、「今年は国で負担するが、来年からは保険料を支払って欲しい。100タカは、蜂蜜1キロ分なので、それを犠牲者に分け与えて欲しい」と演説。安全祈願を済ませた赤い布切れと、今年の免許証の交付に移った。日本の卒業式さながらに、名前を呼ばれた蜂蜜ハンターのリーダーが、国会議員氏から、恭しく免許証を受け取る。リーダーの数は30人ほど、言い換えれば、蜂蜜ハンターたちは300人くらいらしい。僕に言わせると、期間の短さや危険度の算定から、この保険料は高すぎるように思われる。それにしても、この保険は、外国の保険会社のものとか。バングラの無知の民衆は悲しい。 蜂蜜狩り開始の号砲で、会場前に集まった舟がいっせいに漕ぎ出すのを見物するため、式が終わる少し前に、小船に戻る。夕暮れが迫る5時頃、号砲はなったものの、今日は実質的にお休みとあって、船の出発は三々五々。景気付けに飛び出してゆくものもあれば、のんびりしている船もある(写真16、17、18)。 ブルゴアリニ村から、我々の舟は、明日蜂密狩りをする予定の、コラガチアに移動。マングローブの森に囲まれた、水路の中央に停泊。周りには何もないとあって、舟の電気を消すと、星空が美しい。電気に吸い寄せられて集まった小さな蛍が、デッキで競演。翌朝、暗いうちに眼が覚めると、蛍が一匹、僕の部屋でも光っていた。 5)ジョイノグル村(4月2日) 例によって、マングローブの森のモーニング・クルーズ。そのあとの朝食には、昨日採取した蜂蜜があった。焼きたてのナンに付けてみると、非常にあっさりとした味である。マングローブの森に咲く白い花・ボシュール(写真19)からの蜜だという。 午前中は2回の蜂蜜狩り(写真20、21)。最後の蜂蜜狩りでは、管理官が銃の試し撃ち。古い銃だが、音はでる。薬夾が銃に挟まって落ちない。手で苦労してはずす。盗伐者に切られた木材を見た、ハンターの長老が管理官に抗議。盗伐者は、まだ近くにいるらしい。我々の警護優先の管理官は、見ない振りのつもりらしいが、「こんなのを見過ごすようでは、お前達は税金泥棒だ」と一言いいたかったらしい。なかなか面白い長老である。本船に帰って「そうめん」の昼食。ビールが旨い。 コラガチアからブルゴアリニに戻り、ここで森林事務所の管理官や蜂蜜ハンター達と別れる。舟はさらに上流に向かって進み、今日の停泊地チャルナを目指す。上流に進むにつれ、マングローブの森が消え、椰子の生い茂る岸辺に、藁葺き屋根や、養殖池の土手が見え始める。そんな風景のジョイノ村付近で、我々は小船に乗り、岸辺近くを走り、本船は川の中央を並走する。村の船着場を見つけて上陸。我々は村に上陸した初めての外国人だという。村の中を見せてもらい、帰る頃には、村の人々が集まってきた。その折の写真を見ると、40人以上の村人が、船着場で手を振っている(写真22、23、24)。 夕暮れの景色を、小船で眺めたあと、本船に戻り、チャルナまで溯り停泊。夕食は川の中央に停泊した、クルーズ船のデッキの上でバーべキュウ。船に積み込んだビールの在庫がなくなってしまったので、ペットボトルに入れて日本から持ってきたウィスキー「お茶け」を持ち出す。 6)バゲールハットのモスク(4月3日) 真夜中から夜明けにかけて、激しい雷雨があったとのことだが、僕は白河夜船、それを知らない。クルーズ船がエンジンをかける音で目が覚めた。舟はチャルナからクルナ港に向かう。朝8時、クルーズ船に別れを告げ、迎えの大型バスに乗り換える。後部座席に荷物を積んでも、8人の観光客には十分に広い。これから3日間、このバスで、バングランの世界遺産を訪ねる。クルナはバングラでも5指に数えられる大都市だが、対岸のバゲールハットに渡る橋はない。フェリーで往復。因みに、このフェリーは、アジア・ハイウエイの側線(1b)の一部である。 ベンガルは、紀元前のマウリア王朝から、6世紀のグプタ朝まで、インド諸王朝の辺境であったが、8世紀になって始めて、ベンガルを根拠地とする仏教王朝・パーラ王朝が成立。しかし、12世紀にはヒンドゥー教のセーナ王朝に代わり、さらに、13世紀に入ると、インド・モスリム諸王国の侵入を見る。16世紀以降は、ムガール帝国領に編入され、皇帝から任命された総督によって統治された。 そのインド・モスリム諸国の進入の時代、トルコ系の武将ハーン・ジャハーンが、シュンダルバンの森を切り開いて、サイクロンや洪水と戦いながら、町を築き上げた。その折の土木工事で出た土で、レンガを焼き、360あまりのモスクを作ったという。モスクそのものは、観光に値するほどのものではないが、その歴史は興味深い。友人の小野田猛史が、その著書の中で、「応神天皇稜などの大墳墓は、灌漑のために作られた貯め池から出た土を利用したものだ」と述べているが、このモスクのケースも、宗教を利用しながら、開発を進めたのであろう。モスクを案内してくれた、僧侶の額には、3っの痣がくっきり記されていて、奇妙な圧迫感を覚える。お祈りで、地に額をこすりつけるために出来た、「たこ」だという。 再びクルナに戻って、昼食の後、アジア・ハイウエイ1bを北に進み、ラジャヒに向かう。道はさすがに良い。2004年に日本の援助によって建設された、ガンジス川にかかる橋に差し掛かり、写真休憩。橋の写真は、軍事機密なので、撮影禁止なのだが、橋の管理官に掛け合ったところ、橋の袂の記念碑の写真はOKとのこと。管理官もやってきて、一緒に記念撮影。道が良かったので、9時到着の予定が、6時半にラジャヒのホテル着。 7)バハールプールの仏教遺跡(4月4日) 朝、ガンジス川の昇る朝日を観賞。でもこの一帯のガンジス川は、枯れ川に近い。インド側にダムがあることから、インドとの水利権争いもあり、乾季には殆ど水が来ないのだという。その代わり雨期には、洪水が来る。力の弱いバングラは、どうしようもない。中国に、恐喝されて黙っている日本と同じである。ガンジスの川原から、ホテルまでの五百メートルほどを、バングラ名物の人力車で帰る。一人当たり約30円。 朝食後は、ホテルの前の動物園。シュンダルバンでは、出会えなかったベンガル虎にご対面。獣医が吹き矢を使って、ベンガル虎に注射を打つ場面に遭遇する。 昼食の後、バハールプールにバスを走らせる。昨日と違って、細い田舎道。バハールプールの仏教遺跡は、先に述べたパーラ王朝時代の遺跡が発掘されたものである。インド・パキスタンの仏教遺跡のご多分に漏れず、基礎石ばかり。後から入ってきた、ヒンズーやイスラムの王朝に破壊されつくしたのだから無理もない。その壮大さはわかっても、アンコールワットやミャンマーのバガン遺跡のような感激はない。唯一の美術品は、僧院の基礎にはめ込まれたテラコッタ。彫刻されたレンガである。女性の踊る姿など、なかなか面白い。長い尻尾を持った人魚も見つけた。この遺跡には、日本人の訪問者も多いらしい。博物館のガイドが、勝手についてきて、後でチップを要求する。日本語も英語も出来なくて、ガイドという名には値しない。ラジャヒ泊。 8)プティアのヒンズー寺院(4月5日) 午前、プティアのヒンズー寺院群を観光。現在、世界遺産に申請中だということだが、先に見たイスラムと仏教の世界遺産よりは、この方が美術的である。しかし残念なことに、寺院に施された彫刻の顔の部分が、殆ど削り取られている。バングラの独立戦争の頃、駐留したパキスタン軍が、削り取ったのだという。バングラに加勢した、インド軍に対する報復だとか。イスラムの通った後には、他の宗教の文化遺産は残らないらしい(写真25、26、27)。 13時25分ラジャヒ発の飛行機で、ダッカに戻り、ホテルで休憩。夜行便でマレーシアを経由して、4月6日夕方成田着。 実際に見たバングラデシュは、日本で考えていたバングラデシュよりも、清潔で、人々の気持ちも豊かであった。遺跡は期待するほどのものではないが、自然は素晴らしい。 |
旅行写真 |
ラルバーグ城 No.1 |
湧き出る人力車 No.2 |
客待ちの人力車 No.3 |
村の夜明け No.4 |
小エビを掬う女性 No.5 |
小エビを掬う少女 No.6 |
クルーズ船 No.7 |
マングローブと気根 No.8 |
水路と手漕ぎボート No.9 |
泥水と遊ぶ No.10 |
少女 No.11 |
村のメインストリート... No.12 |
外国人がやってきた No.13 |
海老の養殖池 No.14 |
満潮の村 No.15 |
蜂蜜狩りの船(1) No.16 |
蜂蜜狩りの船(2) No.17 |
蜂蜜狩りの船(3) No.18 |
蜜のある花 No.19 |
蜂の巣 No.20 |
蜂蜜狩りの後 No.21 |
夕涼み No.22 |
見送り No.23 |
森の女性と子供 No.24 |
ヒンヅー寺院(1) No.25 |
ヒンズー寺院(2) No.26 |
勉強中 No.27 |