ルルドの聖母出現 |
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ある出来事について検討するとき、それに関わった人物や時代など、いろいろな角度から眺めることが可能ですが、ここでは出現という中心課題のみに焦点をしぼって出来るだけ簡単にまとめてみたいと思います。(参考文献の文脈の雰囲気を出来るだけ残すため、登場人物の氏名や地名、漢字の送り仮名等の表記の統一を敢えて避けました。文中の太字は編者)。 <その概観> <その内容と要請> <その客観的現象> 《参考文献》 ルネ・ローランタン著『ベルナデッタ』ミルサン、五十嵐茂雄共訳(ドン・ボスコ社1982年4月3版)。 アレクシー・カレル著『ルルドへの旅・祈り』中村弓子訳(春秋社1988年4月初版4刷)。 志村辰弥編著『ルルドの出来事』(中央出版社1989年4月改訂初版)。 竹下節子著『奇跡の泉ルルドへ』(NTT出版1996年1月初版)。 <その概観> 1. 出現の場所 フランスのルルドという村。 2.出現を受けた人 もと水車小屋の少女1人(乳母の家の牧童の仕事をやめて1ヶ月に満たず)。 ベルナルド・マリー・スビルー(愛称ベルナデッタ)。 (1844年1月7日生、1879年4月16日帰天。列聖)。 聖母の姿を見て、その声を聞き、対話した。 3.出現の年月日、地名、出現者 年月日 地名 出現者 1858年2月11日 マッサビエルの洞窟のそば あれ。何か婦人の形の白いもの。 同年 2月14日 同上 同上 同年 2月18日 同上 同上 同年 2月19日 同上 同上 同年 2月20日 同上 同上 同年 2月21日 同上 同上 同年 2月23日 同上 同上 同年 2月24日 同上 同上 同年 2月25日 同上 同上 同年 2月26日 (参考文献により出現があったかなかったか異論あり) 同年 2月27日 同前 同前 同年 2月28日 同上 同上 同年 3月 1日 同上 同上 同年 3月 2日 同上 同上 同年 3月 3日 同上 同上 同年 3月 4日 同上 同上 同年 3月25日 同上 同上(無原罪の宿り) 同年 4月 7日 同上 同上 同年 7月16日 同上 同上 <その内容と要請> 1858年2月11日 お昼ごろ ほほえみ。 出現者は十字を切り、ベルナデッタの祈りにあわせて、沈黙のままロザリオの珠を繰る。 そばに来るように合図をするが、ベルナデッタがそうしなかったら見えなくなる。 1858年2月14日 日曜の荘厳ミサの後 ロザリオの二連目で、「いる! ロザリオを手に持って、こっちを見ている」。 ベルナデッタは「もしあなたが神様からのものなら、どうぞここにいてください。そうでなければお帰りください」と言いつつ、聖水をふりかける。 「私が聖水をふりかければかけるほど、あの方はほほえんでいました。私は聖水が全部なくなるまでそのようにしてふりかけていました」。 (編者:そのあとの脱魂状態の記述から、対話があったと思われるが内容は不明)。 1858年2月18日 早ミサの後 ロザリオの祈りを始めてすぐ、小さい声で「いるよ!」。 ロザリオの祈りの後、ベルナデッタは紙とペンを持って洞窟に近づいてゆき、「どうぞお名前を書いてください」と言う。「その必要はありません」という答。 15日間続けてここへ来るように要請。ベルナデッタは承諾。 「あなたがこの世で幸せになるかどうかは約束しないけれど、もうひとつの世での幸せを約束します」。 1858年2月19日 「来てくれてありがとう」。 ベルナデッタ「私が約束を守ったことをおほめになって、また後に知らせることがあるとおっしゃいました。きょうは、(略)地の底から恐ろしい声が聞えてきました。その大きなことといったら、たとえようがありません。なにかがたくさん集ってたがいに叫びあい、激しく争っているようでした。そして誰かが大声をあげて『逃げろ、逃げろ』と叫びました。そのとたん、貴婦人が、ちょっと眼をあげて、きっと彼方をおにらみになったら、その騒ぎはぴったりとやんで、まるで大風のあとのようでした」。 1858年2月20日 午前6時ごろ 出現者はベルナデッタのために1つの祈りを教える。 母にその祈りの内容を問われても、許されないからとベルナデッタは答えるのを拒否。 1858年2月21日 ベルナデッタ「私を見ていらっしゃいましたが、そっと瞳を動かして、私の頭越しに向うの方をごらんになりました。そしてまた私をごらんなさいましたが、なぜか、そのときのお顔はほんとうに悲しそうでした。それで、私も悲しくなって、なぜそんなにお悲しみになりますか、いったい私はどうすればよいのでしょうかとお尋ねしました。すると、罪人のためによく祈りなさいとおっしゃいました。そして間もなく、愛に満ち溢れた穏かなお顔になりましたので私も安心いたしました」。 1858年2月23日 午前6時すぎ ベルナデッタ「今日は私だけに限る三つの秘密を知らせて下さいました。これは告白する神父さまにも打明けることが出来ません」。 (編者:21世紀の現代において、「三つの秘密」からすぐに連想されるのはファティマのそれである。ルルドの場合、ベルナデッタ個人に関わる私的な内容だったと考えられているが、「三つの秘密」という言葉、またそのこと自体がファティマへの伏線になっているように感じられてならない。ローマ法王にきかれたならその秘密を明かすかどうかと問われた時は、「考えてみる」とベルナデッタは答えている)。 1858年2月24日 午前6時頃 「償いを! 償いを! 償いを!」。 「罪びとの回心のために神様に祈りなさい」。 「罪びとのために償いの心をもって地面に接吻しなさい」。 1858年2月25日 早朝 「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」。 ベルナデッタがガブ川のほうへ行くと、“あれ”は指差して洞窟の岩の下へ行くようにと合図。 土を掘ると泥水がにじみ出す。あんまり汚いので3回は捨ててしまい、4回目にやっと飲む。 洞窟のなかのネコノメ草の葉を「罪びとのため」摘んで食べる。 1858年2月26日 午前6時頃 ベルナデッタは、ロザリオを祈り、償いの業をし、泉で顔を洗い、群集に地に接吻するようにすすめる。 「悲しそうなお声で、罪人のために祈りなさい、罪人の罪を償うために苦業をしなさい、と仰せられました。私は頭を下げてそれをお受けすると、こんどは、跪いたまま地に接吻しながら洞窟の方へ進むようにと仰せられ、それをするのは疲れ過ぎはしないかと仰せられたので、私は頭を振って『いいえ』とお答えいたしました」。 (引用箇所は志村辰弥の記述による。ルネ・ローランタンでは、この日、ベルナデッタは洞窟へ行き、償いの業などいろいろ努力するが出現はなかったことになっている。従って、前記参考文献において、出現回数は『ベルナデッタ』では18回、『ルルドの出来事』では19回。竹下節子「正確に何日には何が言われたかということには異論がある。ベルナデットは日誌をつけたわけではなく日を追って記憶するという観念がなかった」)。 1858年2月27日 朝 ベルナデッタは、膝で歩いて地面に接吻。 「この地に聖堂を建てるように神父たちに伝えなさい」 (編者:『ルルドの出来事』では、この日に最初の聖堂建立の要請)。 1858年2月28日 午前6時すぎ ベルナデッタは、償いの業。 (編者:脱魂状態の記述から、対話があったと思われるが内容は不明)。 1858年3月1日 ベルナデッタは知人に頼まれていたので、その人のロザリオを取出して十字架の印をしようとしたが、「それは違います。あなたのロザリオではありません」と咎められる。びっくりして自分のロザリオを取り出し、差し出して「これですか?」と聞くと、うなずかれる。 群集はいっしょに聖母に祈ろうと勧めたと解釈し、以後ロザリオを祈るようになる。 (編者:デジラ神父によるベルナデッタの脱魂状態の描写から、さらに対話があったと思われるが内容は不明)。 1858年3月2日 「神父さまのところへ行って、ここで行列をして欲しい、聖堂を建てて欲しいという希望を伝えなさい」。 出現の後、ベルナデッタは司祭館へ行く。 あいにく神父の機嫌が悪く、ベルナデッタはけんもほろろに扱われる。 神父にベルナデッタは、出現者の名前を聞くように言われる。 1858年3月3日 午前7時、1度目に行ったときには出現なし、正午ごろに出現 ベルナデッタ「神父さまからのお返事を申上げた後で、今朝、なぜお現われにならなかったのかお尋ねいたしました。(略)『貴女の様子を見ようとして集った人の中で、猥りがましい振舞をして洞窟を汚した者があったからです』と仰せられたので、(略)悲しい思いをいたしました」。それらの振る舞いを見ていた人は、なるほどと驚いていた。 出現の後、夕方、ベルナデッタは主任司祭に会いに司祭館へ行く。 「神父様、あのお方は相変わらず聖堂を建てて欲しいと言っています」。 主任司祭が「名前を聞いたのか?」と尋ねると、 「はい、神父様、聞いたけれどもあのお方はほほえむだけで、返事をなさいません」。 神父は笑いながら、「もしお前の言うそのご婦人が、ほんとうに聖堂を建てて欲しいと言われるなら、まず名前を教えてもらいたい。そして洞窟のあたりのバラに花を咲かせてくれれば、私も信じよう。聖堂も建てよう」と言う。 (志村辰弥「この日のご出現は、朝でなかったから、多くの人に知られていない。ルルドの事件を最初に書いたラッセルも、それを書き落している。(略)このご出現については、小学校長クラレンスをはじめ、ドミニック・カズナーブや彼女の従姉のジャンヌ・ヴェーデル、叔父のサジュー等が確認している」)。 1858年3月4日 午前6時半のミサの後、7時5分 ロザリオの祈りの第2連第3の天使祝詞から、ベルナデッタは脱魂状態に入る。 30分後にベルナデッタは洞窟の中に入っていき、出現者と対話。唇が動いているが声は聞えない。その場所にいたのは2分間ぐらい。 「名前をお尋ねしましたが、ほほえむだけでした。バラの花を咲かせてくださいとお願いしたら、やっぱりほほえむだけでした。でも、こんどもまた聖堂を建てて欲しいと言われました」。 (編者:この日のベルナデッタの様子について、その動作や脱魂状態や顔の表情など詳細な記録が残されている。その時間の長さや表情の変化の描写からみて、かなりの対話が行なわれたと思われるが、内容は不明)。 1858年3月25日 午前5時すぎ ロザリオの祈りの後、二度三度と名前を教えてくれるように頼むベルナデッタ。 四度目に尋ねたときに、「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ(私は無原罪のやどりである)」と答えられる。 ベルナデッタは、忘れないようにその言葉を口の中で繰り返しながら、司祭館へ報告に行く。 1858年4月7日 早朝 (編者:ドズース医師によるベルナデッタの脱魂状態についての証言から、対話があったと思われるが内容は不明)。 1858年7月16日 夕方、洞窟からはなれた川の向かい側で 後に「ほほ笑みの御出現」と呼ばれる。 ロザリオを祈り始めたとたんに脱魂状態。 「私には、柵もガブ川も何も見えなくなり、前の時と全く同じように洞窟の中にいるような気がしていました。聖母マリア様を見るだけでした」。 (竹下節子によれば、ご出現についてベルナデッタは全部で7篇の手記を残している。それらの日本語訳の刊行が切に俟たれる)。 <その客観的現象> ここで言う客観的現象とは、出現を直接的に受けたベルナデッタ以外の第三者(うわさを聞いて集まってきた群集等)によって認められた、通常ではない現象のことを言います。 1858年2月11日 第三者は2人 妹のトワネットと友人のジャンヌ・アバディーがいたが、先に川を渡って洞窟のそばで薪を拾っていた。 二人とも、ベルナデッタがひざまずいて祈っている姿には気づいていたが、出現があったことには気づかなかった。 1858年2月14日 トワネット、学校の女の子たち十数人、サヴィ水車小屋の親子 ベルナデッタの脱魂状態に、全員気がつき驚く。「マリーは姉の変った様子を見て、びっくりぎょうてんし、家に走り帰って腰掛に倒れかかったまま泣出してしまった」。 1858年2月18日 マリア会のミエ夫人とアントワネット・ペレー婦人 1858年2月19日 母ルイーズと伯母ベルナルドほか7〜8名 これ(ベルナデッタの脱魂状態)を見たルイズとベルナルドは、いまさらのように驚いて「ああ美しい!」と感嘆した。そしてルイズは気違のようになって「ああ神さま! どうぞ娘を死なせないでください」と祈っていた。 1858年2月20日 推定30人 前方にいたルイズが大声をあげて叫んだ。「ああ、私は頭が変になっているんじゃないかしら、あれが私のほんとうの子だろうか!」と。 1858年2月21日 推定100人 ルルドの医師ドズー博士はじめて出現に立会い、脱魂状態を観察。 「(略)やがて彼女の顔は、傍にいた人たちの注意を引くほど急に変化した。彼女はもう出現者に会っているようすだった。(略)余は一心に彼女の動作を注視した。手を取って脈搏を調べたが異状はなかったし、また呼吸も平常でなんの変りもなかった。そして全体の状況から見て、なんの神経的症状をも認められなかった。彼女はすぐ立上って洞穴のまえに進んだが、今まで喜びに溢れていた顔は、急に憂いに変って、両眼からは涙が流れ出た。余はこの急激な変化には驚いた。(略)余『私がおまえの手を取って、脈を調べたことを覚えているか?』ベルナデッタ『いいえ、少しも覚えていません』」。ドズー博士は、出現の現状と、ベルナデッタの率直な秩序正しい返答によって、この事件は簡単に解決出来るものでないと思った。 1858年2月23日 推定150人 ルルドの税務管理局長ジャン・バプチスト・エストラード、はじめて脱魂状態を観察。 「私はボルドーの劇場に行ったとき、有名な女優のラッシェルを見たが、これはまことにすばらしい女性だった。しかしその彼女もベルナデッタとは比べものにならない。間違いなくこの女の子の前には超自然的なものが現われているのだ」。 1858年2月24日 推定300人 1858年2月25日 推定350人 ときどきベルナデッタは(24日同様)地面に接吻する。でこぼこで石の多いそんなところを、(ひざまずいたまま)軽々と動いて行けるのは不思議だった。 午後になって、ある人々がまた洞窟のほうへ行った。この人たちは、ベルナデッタが掘って泥水を飲んだあとにできた小さな穴を見ている。 エレオノール・ペラールという婦人がこの穴の中に棒を挿し込んだ。すると水の流れのようなせせらぎの音が聞える。 水は量を増してこんこんと湧いて来た。色も次第に澄んできて、汲めば汲むほどきれいになってくる。こうして泥水は清水に変わった。 その日のうちに、水をビンに詰めて二人の人が持ち帰った。その一人は病気の自分の父親に飲ませようと考えたのだ。もう一人はタバコ屋の息子であった。彼は片方の目を病んでいたが、何日か経つと片目を隠していた眼帯が取れている。水を汲むところを見ていた助任司祭ペンヌ神父の妹が、彼の眼帯がなくなったことに気づいた。 1858年2月26日 推定600人 1858年2月27日 (不明) 1858年2月28日 推定1150人 ルイ・ブリエット、石工。20年前に、採石場での爆発事故で、岩の破片により右眼を損傷。 この日、娘に、湧き出した泉の水を汲んでくるように頼む。その水で右眼を洗うと、視力が恢復。喜んで続けて眼を洗うと、みるみるうちに物の形をはっきり認められるようになり、20年来の病が完全に癒やされた。 一両日後、彼は面倒を見てもらっていたドズー博士に報告。その証言が残っている。 1858年3月1日 推定1500人 休暇で隣村に帰宅していたデジラ神父による、ベルナデッタの脱魂状態の描写。 「ベルナデッタの笑顔は、全く表現できないほど美しかった。どんな上手な絵かき、どんなに巧みな俳優でも、その魅力、その恵みのさまを描写することはできないだろう。それは到底想像もできないものである。特に私の心を打ったのは、その顔に次々と現われてくる喜びと悲しみの表情であった。次々というのは、稲妻のような速さでその顔が変わるからである。しかし不自然なことは一つもなかった。私は子供が洞窟へ行く時の姿を見た。そして一生懸命その態度を注視していた。しかし道の途中でのベルナデッタと、出現の時のベルナデッタとは、あまりにも異なっていた。そのとき、この場所には深い尊敬と深い沈黙、潜心のふんい気があった。ああ、どんなにあそこにいた時はよかったことだろう。私は天国の門の前にいるかのような気がしたのだ」。 カトリーヌ・ラタピ、妊娠9ヶ月の女性。1856年10月、木に登って豚のためドングリの実を落としていて墜落して腕を脱臼。右手の指は曲がったままで動かず、感覚もない。長いあいだ医者通いをしても治らず、手仕事が出来ないので生活が困窮していた。 この日、出現の後、一人で洞窟の泉へ行って動かなくなっていた手を水に浸すと、体中に快い感覚が伝わり、手がやわらかくなるのをおぼえた。それと同時に曲がっていた指は、突然もとの通り動くようになった。彼女が感謝の祈りをしていると陣痛が始まった。「おお、今私を治してくださった聖母よ、どうぞ私が家まで無事に帰れるようお守りください」と祈りながら、二人の小さな子供の手をひいて7キロはなれた自分の村まで歩いた。やっと家にたどり着くと、すぐベッドに横たわり、ほとんど苦痛もなしに子供を生んだ。ジャン・バプティストと呼ばれるこの子は、後に司祭となる(カトリック教会公認の奇跡的治癒第1号)。 1858年3月2日 推定1650人 ジュスタン・ブーオール(1)、骨軟化症で生後2年を過ぎてもゆりかごの中。腰掛けることも立つこともできない。発熱性の消耗性疾患にかかり、食欲減退のためはなはだしく衰弱。医師ペルユ博士も匙を投げ、隣のゴゾー婦人も、秘かにジュスタンの喪服を作っていたほど。 この日の午後、刻々と死に近づいていくジュスタンを見ていた母のクロワジーヌは、突然「洞窟のマリアさまにお願いしよう」と叫ぶや、愛児を前掛に包み、狂気のようにマッサビエルの洞窟へ走った。夕方5時頃だった。洞窟の前には四五十名の人々が祈っていた。彼女は平伏してしばらく祈った後、自分と子供に十字架の印をして、子供を裸体のまま氷のような水の中に浸した。「あっ、あの女は発狂している!」見ていた者は、思わず叫んだ。一人の婦人は見かねて「あなたはそんなことをしたら、子供を殺してしまう」と止めようとした。すると彼女は「いいえ、かまわないで下さい。この子は家に寝かせておいても、どうせ死んでしまうはずです。私は、私の力の限りを尽せばそれでいいのです。あとは、神さまと聖母マリアさまがお助け下さるでしょう」と見向もしなかった。こうして、15分間も子供を水に浸したかと思うと、また前掛に包んで大急ぎで家へ帰った。その間、子供は全く死んだように見えた。ドズー博士が現場に在って、この事実を目撃した。 1858年3月3日 推定3000人 ルルドの小学校長クラレンスの証言。 「今朝、貴婦人が現われないことについて、ベルナデッタの答弁を聞いたが、実に正直そのものである。彼女が、もし嘘を言うことに慣れていれば、あのような場合には嘘をいわずにはいられまい。また、反対者のいうように、精神が狂っており妄想に捉われているならば、大勢の人々に囲まれてとやかくいわれたら、ますます烈しく狂い、妄想に陥って、人並の人間とは思えないであろう。ところが、事実はこれに反して、少しもそのような様子が見えないばかりでなく、言葉といい、態度といい、謙遜で平穏であったことは、識者の注目すべき点で、冷静に判断しなければならない」。 ジュスタン・ブーオール(2)。 (この日の)朝になるとジュスタンはぱっちり眼を覚ました。頬にはやや紅色さえさしている。そしてにっこり母の顔を見た様子は、昨日まで死のあいだをさまよった病児とは、全く考えられなかった。それからしばらくして、ジュスタンはしきりに乳を求めるようになった。クロワジーヌは大喜びで、彼を膝に抱き上げて、乳房をふくませた。おなかがととのうと、彼はまだ一度も歩いたことがないのに、急に立って歩き出そうとする様子なので、さすがのブーオール夫婦も腰を抜かすほど驚いた。そして、その日は、子供をだましだまし静かに一日休ませた。 1858年3月4日 推定8000人〜20000人 この日のベルナデッタの脱魂状態について、従姉のジャンヌ・ヴェデール、ルルドの警察署長ジャコメ氏、町の助役等の詳細な記録が残されている。たとえば、いろいろな動作の回数「ほほえみが34回、洞窟のほうへのおじぎが24回」。30分後にベルナデッタは洞窟の中に入っていき、対話が始まる。唇は動くが、外には何の音も聞こえない。そこにいたのは2分間ぐらい。ジャンヌ・ヴェデールは、その間だけでほほえみが18回と記している。その後3分間、悲しげな顔。つぎに喜びにあふれ、丁寧におじぎをしてから自分の場所に戻り、15分間ロザリオの祈り。終わりにローソクを消して、一言も言わず帰り始める。 ジュスタン・ブーオール(3)。 ブーオール夫婦は子供が小康をえたので、家に休ませたまま、二人は働きに出掛た。然し、クロワジーヌは子供が気にかかったので、間もなく引返して、窓から家の中を覗いた。すると、ジュスタンはいつの間にか起き上って、室内を歩き廻り、椅子をころがして遊んでいるではないか。彼は完全に全快したのである。彼女は、気違のように家に飛び込み、わが子を固く抱きしめて、うれし泣きに泣いた。 その後、ジュスタンは二度と病気に悩むことなく、健やかに成長した。11年の後、ラッセルがこの事実を調査するためにブーオール家を訪れた時、クロワジーヌは、彼は病弱どころではなく、元気過ぎて遊びに熱中し、学校の勉強をしなくて困るとこぼしていた。 このことについて、病気をはじめから診ていたペルユ博士は医学上説明のつかぬ不思議なことだといい、ドズー博士も自然科学を超越したできごとであると証明した。 1858年3月25日 かなりの人々 エストラードとその妹は、ベルナデッタが「私は汚れなき孕りであります」と貴婦人の言葉を繰返しながら、貴婦人に真似て、合掌した両手を離して天を仰ぎ、更に合掌した様子の優美なのを見て、非常に感嘆し、ベルナデッタではなく、全く聖母マリアを仰ぎ見るような気がした。そして彼女の訪問は、天使の訪れのように思われて、とても嬉しかったと語った。 彼女(ベルナデッタ)は、この言葉を始めて聞いたので「コンセプション(孕り)」を「コンセプシウ」と間違えた。それを、エストラード兄妹が訂正すると、彼女は無邪気な顔をして「お嬢さま、インマクレ・コンセプションてなんの意味ですか」と尋ねた。エストラードはこの質問を聞いて、彼女は決して嘘をいっている者でないことを確めたといっている。 1858年4月7日 推定900人〜 医師ドズー博士によるベルナデッタの脱魂状態についての証言。 「(ベルナデッタは)左手にロザリオ、右手に四十センチもある長いローソクを持って、まるで天使かと思われるような崇高な姿のうちに、ロザリオの祈を誦えはじめた。やがて彼女は、跪いたまま、いつもの場所から洞窟の方に進み、突然途中で止った。その時、無意識に、両手を胸のまえに持って行ったので、ローソクの火は左手の指のあいだをくぐって、風とともに燃え上ったが、彼女は平然として、少しも熱さを感じないようであった。私はこれを見て驚いた。そして、時計を出して時間を計ったら、十五分余り火が燃えていた。それから、彼女は洞窟のまえに登って、はじめて両手を元通り離した。こうして彼女は祈をおえ、平常の状態にもどったので、私は、彼女の左手を厳密に調べたが、僅かの火傷さえ認められなかった。そこで、あらためてローソクに火を点し、彼女の左手に当てようとすると、彼女は『あ、熱い!』とあわてて手を引いて『あなたは他人の手を焼こうとするんですか?』と叫んだ。私は、この不思議な現象を十分注意して見たが、見た者は私ばかりでなく、側の者がほとんど全部見たのだから、私の迷いではない」。 こんな現象は少くとも二回あった。エストラード嬢は、この日よりまえに、同じことを一度見たと証言している。すなわち、ベルナデッタが点っているローソクに手をさしつけているのを見て「あ! ベルナデッタの手が焼ける。誰か早くローソクの火を消してちょうだい!」と思わず叫んだことがある。しかし、見物人は気がつかないと見えて、誰も応じる者がなかった。エストラード嬢は、驚いて、あとからベルナデッタの手を調べて見たが、火傷のあとがないばかりか、ローソクの油煙のあとさえなかったという。 1858年7月16日 ルシル叔母、二人の聖母会員ほか、町の人々 官憲の弾圧により洞窟は立ち入り禁止(同年6月〜10月。群集の増加が政府に脅威を与え、また洞窟の泉を鉱泉とみなして無断で汲み出すのを禁じたため)になっていたので、ガーヴ川を挟んで向こう岸から洞窟を遠望する位置。ベルナデッタはやはり脱魂状態になる。 (編者:当時の地図を調べると、洞窟のすぐそばに細い流れがあり、さらに離れてガーヴ川が流れていた。最初に出現のあった場所は、ちょうど中洲の端のような位置だった。従って、この日、洞窟に出現された聖母と、別れを惜しむベルナデッタとのあいだには、流れが二つはさまっていたことになる)。 この後、現代まで続く病気の奇跡的な治癒の報告については、多くの人の知るところです。本稿では締めくくりとして、ノーベル医学・生理学賞受賞者であり、紛れもなく20世紀の生んだ最高の知性の一人であったアレクシー・カレルの、奇跡的治癒に関する衝撃的な描写をあげておきたいと思います。(ちなみにカレル博士がルルドへ旅したのは1902年です)。 アレクシー・カレル「ルルドへの旅(遺稿)」より(主人公レラックは、カレルの逆綴り)。 看護人や担架係が大勢押し合っていた。 それから車椅子が一台また一台とやってきた。口からよだれをたらした知恵遅れの女性、ゼラチン質の甲状腺腫のできたクレチン病患者の女性がマリー・フェラン(編者:結核性腹膜炎の末期症状の女性で、J医師は霊水場へ運ぶ前に「臨終ですね」と言った。抜粋文の描写は、さすがに水につけるのを拒否され、腹部に水をふりかけただけで出てきて洞窟前の広場へ運ばれたときの状況。レラックの付き添っていた巡礼団の患者)の横に並べられた。徽章や教皇勲章の下の胸をふくらませ、手足をあわただしく動かして、S・Mが突入してきた。 レラックの目は、マリー・フェランの上に落ちた。彼女の顔が変ったように見えた。蒼白い色が消えて、唇は前より青くないように見えた。 「幻覚だ」と彼は思った。「これは面白い心理現象だ。おそらく記録する必要があるだろう。」 彼は万年筆を出し、正確な観察時刻をカフスに記録した。二時四十分だった。 「しかし今日まで幻覚を持ったことは全然なかったのだが」と彼は思い、Mのほうを向いて、 「ねえ、この病人を見てごらんなさい。様子がよくなったと思いませんか。」 「回復があったとしても、全然目にははっきりしませんね。」とMは答えた。「私にわかるのは、容態が悪化はしていないということだけです。」 レラックは近づいて、脈と呼吸を数えた。そして少しすると、「呼吸は遅くなりましたよ。」とMに言った。 「それじゃあ、おそらく今度こそ死に向っているんだと思いますね。」とMは言った。Mは信仰を持っていないので、そこに尋常でない事実や奇跡を認めることはできなかった。 レラックは答えなかった。眼下に彼は、全身の状態の、明白で迅速な回復を認めていた。何かが起ろうとしていた。軽い感動が起り、それに対して彼は身を固くした。手摺によりかかった彼は、注意力をすべてマリー・フェランに集中し、もはや彼女だけしか見ていなかった。巡礼と病人の群衆を前に、今度は一人の司祭が説教をしていた。続いて聖歌と祈願が響きわたった。マリー・フェランの顔はずっと変化し続けていた。目は輝き、恍惚として洞窟のほうに向けられていた。重大な回復が起っていた。ド・O嬢がマリー・フェランのほうに身をかがめて、その身体を支えた。 突然、レラックは自分が青ざめるのを感じた。彼は、彼女の腹部にあたる、ベルトの周辺の毛布が少しずつ引っ込むのを見たのである。唖然とした彼は、Mの注意を促した。 「たしかに」とMは言った。「引っ込んだように見えますが、おそらく毛布のせいでしょう。」 大寺院で、三時が鳴った。数分もたつうちに、腫脹は完全に消えたように見えた。 「本当に気が狂いそうだ。」とレラックは思った。 そして彼はマリー・フェランに近づき、呼吸を診て脈をとった。心臓は非常に速くはあるが、規則的にうっていた。 確実に何かが起っていた。 「具合はどうですか」と、彼は、彼女に聞いた。 「とてもよいです。力はあんまりありませんけれど、治った感じがします。」と非常に小さな声でマリー・フェランが答えた。 もう迷う余地はなかった。マリー・フェランの病状は回復しつつあった。彼女はすでに、同じ人間とは思えない様子をしていた。 深い動揺のために、ものを考えることもできない状態で、レラックはその場にじっとしたまま、Mとド・O嬢に起った事の次第を知らせた。 ド・O嬢はこの驚くべき事柄を、まるで骨折の治癒に居合せた医者くらいに、ほとんど驚いていない様子で見ていた。彼女はこういうことに慣れていたのである。 レラックはもはや話しもしなければ、考えてもいなかった。それほどに、この予期せぬ出来事は彼が想いめぐらしたどんな予測にも反していたのである。 ド・O嬢はカップ一杯の牛乳をマリー・フェランに出すと、彼女はそれを全部飲んだ。それから少しすると、彼女は頭をもち上げて自分の周りを見て、少し身体を動かして脇を下にしたが、少しも苦しい様子は見せなかった。 レラックは立ち上がり、巡礼たちの列がつまっている間を通っていった。巡礼たちは祈願の声を上げていたが、彼はほとんどそれを聞くこともなく出て行った。四時頃だった。 不可能な事だった。予期もしない事だった。奇跡が今起ったのだ! 死にそうだった娘がほとんど治ってしまっている。 彼は疾患の実際の状態はまだ見てはいない。しかし、今すぐにも「奇跡」とされるであろう機能的回復が、彼の眼下で実際に起ったのだ。 それもなんと簡単に! ド・O嬢と彼だけがこの素晴しい出来事を知っていた。 (3ページほど略。レラックことカレル博士は、このあと医学証明事務所へ行き、所長のボワサリー医師と語り合う。7時半頃、マリー・フェランを診るため病院に戻ってくる)。 レラックは考えていた。「ありえない仮定が現実になったのだろうか。」《無原罪の御宿り》の病室の入口のドアを開けると、彼は、マリー・フェランのベッドに急いで行き、口もきかなかった。変化は驚くべきものだった。(略。マリー・フェランの喜びの表情の描写)。 「先生、私は完全に治りました。」と、彼女は近寄ったレラックに言った。「とても弱ってはいますが、やろうとすれば歩くこともできそうです。」 (略。カレル博士は脈と呼吸をはかり、毛布を除いてマリー・フェランの腹部を触診する。見事に回復している状況の丁寧な描写)。 治癒は完璧だった。すでに顔はチアノーゼ状態になり、腹部は固くなり、心臓は支離滅裂の状態にあった瀕死の人間が、数時間のうちに、痩せて弱ってはいるが、ほとんど正常な娘に変身してしまったのだ。(略) 「完全に治ったようです。」と彼は、知らないうちに入ってきて正面にいたMに向って言った。「診てごらんなさい。私にはもう何も見つかりませんが。」 J医師とMは、腹部の触診をしてみた。レラックは、ひき退り、同僚のやることをすべて、目を光らせて追った。 「この娘は完全に治った。」とレラックは考えていた。「そのことに異論の余地はない。こんな興味深いことは今までに見たことがない。長年の病気でほとんど破壊された身体に急に生命が戻ってくるという、この特別な光景の印象は、なんと恐ろしく、なんと素晴しいものだろう! (略)」。 (編者:このブログは営利目的ではありません。主と聖母への奉仕活動です。どなたか英語に訳して広めていただければ幸いです。もちろん著作権は放棄しております)。 |
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