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タイトル
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10月の空?
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目的地 |
日本・アジア > 日本 > 愛媛県
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場所 |
愛媛 |
時期 |
1998 年 10 月 |
種類 |
建物 |
コメント |
10月18日−−私たちはバンコク経由で成田に着き、そこからシャトルバスで移動し、羽田のTホテルへ宿泊した。予定どおりの行動は予想外の興奮と熱狂風に包まれて、意気揚々と旅先の思いで一杯膨らませて凱旋したのだった。 チャックインして早々にお互いの実家へ電話を入れたが、両方の実家とも繋がらない。 コール音がむなしく永遠と思われるくらい続いた。なんだか胸騒ぎがする・・・。 彼女は機転をきかして、夕食前に姉の家へ電話した。姉は留守だったが義兄が出た。 「・・・・・・・・・・・」 長い彼女の沈黙があった。 そして、絞り漉すような声で、
「父が死んだ」とうわの空でもらした。
−父が死んだ−私はその言葉を理解するのに時間がかかった。 到着便が遅いこともあって、ロビーはごったがえしており息も切れそうな喧騒だったが、目がぐるぐる回るようで、耳鳴りがするようで、しかも何も見えず、何も聞こえなかった。 義父は10月16日に最期を遂げた−−−。 突然のことだった。 その日いつもよりはやく、朝の4時に起床した彼はやおら冷蔵庫から罐ビールを取り出して寝室の横の部屋のソファに座り、チビチビ飲みはじめた。罐に残った量からして二口か三口くらいだったという。 隠居同然ながらも洋服・呉服店の店主として働き詰めた彼の楽しみは脳こうそくを患いながらも、昼食時、夕食時かかさず飲むビールだった。 それでも朝から飲むのはめずらしいことだった。 それには理由があった。 10月16日、その日は地元の勇壮な秋祭りの初日だったのだ。 そしてもうすぐ、3人娘のうちなかんず可愛がっていた末っ娘が旅先から帰ってくる。 彼も最期の日を壮絶ながらも素敵なフェスティバルの渦中にいた気がしてならない。 大勢の親戚は私たちが帰国するまで柩に安置し荼毘に伏すのすら待ってくれていた。 うきうきした私たちを駅から見送ってくれた日を思い出す。 今度は私たちが見送る番だった。 予期もせぬ深い深い悲しみに包まれて・・・。 駅の別れ際に言いあぐねた「気持ち」はカイロタワーの展望台へのエレベーターの中で芽生え、アスワンのレストランで蕾になり、ナズラットサマーン村で開花した。 「それなら、そう言えばよかったのに」妻はそう言うが、 男をわかっちゃいない。 あの時は言葉にならなかった。この旅はその「言葉」を探し求める旅でもあったのだ。 ついぞ伝える機会を失ったが、きっと、伝わっているはずだと信じたい。 半年の間、お互い多くは語らなかったが何度も酒を交わした。
Tホテルの一室で妻は半狂乱することはなかったが泣き尽くしていた。 どうでもよいことだが、3度目になるTホテルに良い思い出は一つもなかった。 一回目は学生時代の終盤から付き合いだした最愛の彼女と遠距離恋愛の限界から別れる決心を心に決めた最期の東京の夜−−−−。 二回目はトルコからの帰国便が大幅に遅れたために国内便が全て終わっていた、激しい雨が降る夜−−−−。 いずれも一人狭い壁を眺めていたが3度目の今回は彼女を見つめ続けるのみだった。 何を声かけても叶わぬことだったが、自分に言い聞かせるように一言二言声かけた。 「結婚できてよかったね、父さんきっと喜んで安心してあっちへ行ったんだよ」 「ギザの結婚式よかったね、絶対二人だけの宝物だよね。」 妻は嗚咽しながら何度もうなずいた−−−−−−−。 彼女の涙を見るのはアスワン以来2度目だった。 そして、私がみる最後の涙になるのかもしれなかった―――。
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